立場による違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
在日外国民間人は、警察による分類では大別して枢軸国人と中立国人、無国籍人そして敵国人に分けられる。当然のことながら枢軸国人、同盟国人と中立国人は「友好国」ということもあり優遇された立場に置かれ、例えば食料配給も日本人よりもかなり優遇されていた(これも相互主義に基づき同盟国に住む日本人も同様であった)。また白系ロシア人をはじめとする無国籍人はイデオロギーで対立することがなかった上に、ソ連に対抗する目的で満州国軍に浅野部隊という日露満の混成部隊が設立されるなど「友好国民」扱いであった。 敵国人(適性国人)は開戦から終戦に至るまで男性のほとんどが抑留所に入れられ、性差別がひどい地方では女性が入れられることも多かった(これは相互主義に基づき敵性国に住む日本人も同様であった。しかし人種差別が酷かったアメリカやカナダ、ペルーのように、日本の大使館員や駐在員などの一時在留者を除く、現地の国籍を持つものや、永住権を持つ男女の多くが強制収容所に入れられるという酷い場合もあった)。また、開戦から終戦に至るまですべての外国人は臨時措置法により、旅行する際に地元警察への届けが必要になった。 なお1942年から1943年にかけてイギリスとアメリカとの間に3回運航された交換船 で、イギリスやアメリカ、カナダやオランダ、ブラジルやオーストラリア、ニュージーランドや英領インドなどの敵性国民は、これらの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本やタイ、満州国、ドイツ、イタリアの駐在員や外交官、留学生と交換される形で帰国した。 1943年9月29日以降は、全ての同盟国人や敵性人を含む外国人の住んではいけない場所が決められ、神奈川県横浜市中心部や神奈川県横須賀市、千葉県木更津市など軍機が多い都市がこれに指定された。その後多くの西洋人が自主的に東京市内や横浜市内の指定地域外、または西洋人が多い別荘地の箱根や軽井沢に移ったが、これは結果として1945年以降の連合国の空襲から逃れられるという利点があった。 1945年初頭には神奈川県の全ての外国人の住人は箱根へ移るように通告され、同年7月には全ての同盟国人や敵性国人を含む外国人が地方への移動を通告されたが、これも同様であった。なおこれらの居住地の移動に掛かる予算は、個人的なもの以外全て国費から払われ、これは同盟国人、中立国人、無国籍人、敵性国人いずれも全て同様であった。また1944年冬には、ドイツ、イタリア、タイ、中華民国(南京国民政府/汪兆銘政権)、満州国、ソ連などの大使館の一部施設が、激しくなると予想される連合国の空襲から逃れ東京から神奈川県箱根に移った。 なおイタリアやフランス、そして大戦末期にはドイツなど、戦況やどの政権につくかで同盟国人から敵性国人と立場が一変するケースがあったものの、ドイツは1945年5月に枢軸国として敗北し、すなわちその後即座に敵性国人として抑留されるべきであったが、元は同盟国で友好的な在日ドイツ人が多いことや、日本側の都合で終戦に至るまで河口湖や箱根などへの軟禁程度で済んだ場合もあった。
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