科学などの探求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 08:21 UTC 版)
「ジェイムズ・ボーディン」の記事における「科学などの探求」の解説
ボーディンは1743年には既にベンジャミン・フランクリンと出逢っており、この二人は科学的な課題について度々協業し、また文通もしていた。ハーバード大学での学生時代にジョン・ウィンスロップから科学の教えを受け、電気学や天文学への興味を抱いた。1750年、ボーディンはフィラデルフィアに旅してフランクリンと会った。ボーディンはフランクリンが行う電気の実験に興味を示し、フランクリンは王立協会に提出するために準備していた論文にボーディンの助言を求めた。フランクリンの事務所を通じて、ボーディンの幾らかの文書が王立協会に提出された。ボーディンは1761年の金星による日面通過をニューファンドランド島で観測するために遠征隊を派遣することについて、植民地議会の支持を得るための推進者だった。同年には、望遠鏡の改良を提案する論文を出版した。1785年、光は「微粒子」によって伝達されるというアイザック・ニュートンの学説に反論する一連の覚書を出版し、自然の観察と聖書の双方を引用していた。 ボーディンの科学に対する興味は終生続いた。1780年、アメリカ芸術科学アカデミーの創設者の一人となった。その初代会長となって終身務め、アカデミーにその蔵書を遺した。ボーディンは科学的論文だけでなく、英語やラテン語で詩も出版した。エジンバラ大学から名誉博士号を贈られ、ハーバード大学のフェローとなった。1788年にはロンドンの王立協会のフェローに選出されており、独立後のアメリカでは最初のフェローとなった。 ボーディンは事業にも広範な興味を持っていた。商人として特徴づけられることが多いが、大西洋貿易に従事し、その主たる興味は土地にあった。その承継遺産には大きな土地が含まれ、その大半は現在のメイン州と、マサチューセッツ州の南岸沖にあるエリザベス島の肥沃な農業地を維持していた。ボーディンはその所有土地を拡大し、ロードアイランド州を除いて、ニューイングランドの各州に資産を持つことになった。メイン州を流れるケネベック川沿いの大きな領土では管理領主の一人であり、土地の不法占拠者や競合する土地の利権について、しばしば法廷手続きに巻き込まれていた。特に不法占拠者との交渉は、マサチューセッツ社会の低層階級に対する嫌悪感を増させることとなり、その政治にもいくらか影響した。その承継遺産にはアトルボロ(現在はブリッジウォーター)にある鉄工所も入っていたが、これは管理に多大な時間を要したので、1770年に売却することになった。アメリカ独立戦争の混乱があったが、ボーディンは常に注意深くその財務的な身の回りを処していた。ボーディンは独立推進派を財政的に支持したが、自分の事業の利益を損なうことなくやり遂げた。独立推進者のジョン・ハンコックが事業を放り出していたのとは対照的だった。 後の1784年、ボーディンはマサチューセッツ銀行の初代頭取を務め、さらにマサチューセッツ人道協会(海難船生存者やその他水に関する災難の被災者を救援することを目指した組織)の初代会長も務めた。
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