看護改革
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終戦後の1947年(昭和22年)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の看護改革の一つである日本産婆看護婦保健婦協会(後の日本看護協会)設立に際して、青森県支部の設立に着手した。この際には戦前からの考えを固持する人々からの反発にも遭ったが、GHQ公衆衛生福祉局看護課長として来日していたグレース・E・オルトが大きな後押しとなった。同1947年秋に花田らの苦心が結実し、日本産婆看護婦保健婦協会青森県支部(後の青森県看護協会)が発足した。このオルトが花田に語った以下の言葉は、戦後の物資不足で病院や看護教育の事情に苦心する花田にとって大きな励みとなった。 看護教育は、丸太が二本あればできる。一本には教師が、一本には学生が座ればいい。大戦後の世界の看護婦は、みんな同じような状態です。ナイチンゲールが看護婦学校をつくったときのことを思ってみましょう。わずか6名の生徒から始めましたね。 — 金子 1992, p. 268より引用 1949年(昭和24年)、八戸市内で急性灰白髄炎(ポリオ)の集団感染が発生した。まだ予防ワクチンの存在しない時代であり、新聞でも「世界的にも稀有の現象」と報じられた。八戸赤十字病院の担当医から要請を受けた花田は、治療法を求めて上京し、日赤を通じてGHQから、オーストラリアで効果を上げた治療法「ケニー療法」の資料を入手。八戸赤十字病院で毎日その療法を続けるとともに、新聞記事を通じ、一般向けにこの療法をわかりやすく紹介した。 戦後の看護改革の中で花田はアメリカ式の看護を学び続け、日本の看護教育がアメリカよりもはるかに遅れていることを知った。そこで看護婦を社会的に専門職として認めさせるため、ロンドンのナイチンゲール看護学校に倣い、看護教育施設の建立を目指した。1951年(昭和46年)に悲願の看護教育施設として、青森県立高等看護学院(後の青森県立保健大学)の開校が決定した。しかし花田の考えはなかなか世間に認められず、入学応募者はたった1人であった。新聞紙上では「嫌われた県立看護学院」と題し、不要不急の建物を創ったと非難の記事が掲載された。花田は青森県内の高等学校を回り、手製のフローレンス・ナイチンゲールの紙芝居などで看護教育の重要性を説き、生徒集めに奔走した。その甲斐があり、翌1952年(昭和47年)3月には38名の入学者が集い、花田自らも講師として教壇に立った。
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