看護教育の充実
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1951年(昭和26年)4月からは看護学校への入学条件を高校卒業資格者に引き上げ、3か年課程の看護教育制度を確立。未だ交通網の整備されていない社会状況のなか、県内離島各地の高校をワニタとともに訪問し優秀な学生を集めることに奔走した。これは将来の看護指導者たちを育成することを考慮したものであった。また看護婦学校が将来琉球大学看護学部へ移行することを想定し、同学校で単位認定ができるよう働きかけこれを認めさせた。さらに指導者育成のため琉球大学へ委託生を派遣(期間1年)。これにより大学レベルの充実した看護教育を実施することを可能とした。 この制度は1971年(昭和46年)3月まで約20年間続き、看護学校の学生に大学単位が認められたことは沖縄の看護教育水準を飛躍的に高める大きな成果となっている。なお看護学校は昭和29年に病院附属から独立した学校となり、教育体制の整備が加速していく。 1952年(昭和27年)琉球政府厚生局看護係長になると、立ち遅れた医療事情に深く心を痛め、看護行政の整備に力を注いだ。とくに戦争で失われた看護職免許(保健婦、助産婦、看護婦)の復活を関係機関に働きかけ、看護職としての身分の復活と看護要員の確保を推進し社会の医療に対する不安解消に努めた。 1966年(昭和41年)10月から1972年(昭和47年)3月まで、沖縄中部病院において本土では例を見ない「臨床研修医制度」を立ち上げ、看護体制の確立と看護業務の向上に努めた研修医訓練を円滑に行ったことも看過できない功績のひとつとされている。 1972年(昭和47年)3月琉球大学付属病院初代総看護婦長に就任すると、約8年間にわたり同大保健学部の実習病院として機能し、同大学への看護教育の実践の場を提供、看護教育の発展に寄与した。1980年(昭和55年)4月沖縄県で初めて市町村による病院が誕生すると、那覇市立病院総看護婦長として地域密着型の看護を掲げ、国立琉球大学医学部保健学科や県立那覇看護学校、浦添看護学校の実習病院としての受け入れを促進、将来の看護婦たちへ実勢の場を提供し、後輩の指導と後進の育成にあたるなど、沖縄看護教育の向上に多大な影響を残している。
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