監禁と流浪とは? わかりやすく解説

監禁と流浪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 17:12 UTC 版)

白蓮事件」の記事における「監禁と流浪」の解説

この間、燁子は伊藤との離縁発表された後の1921年大正10年11月11日山本計らい密かに宮崎家訪れ病床にあった龍介の父・滔天家族らと初め対面した事件起きるまで何も知らされていなかった滔天は、龍介に「どうしようなくなったら、2人心中してもいい線香くらいは仏前オレ立ててやる」と励ましたという。この3日後、近所に家を借り龍介と燁子は束の間同棲生活をおくる。 しかしわずか2か月後の1922年大正11年1月16日、龍介の留守中に燁子の姉・入江信子兄嫁柳原花子訪れ、燁子に右翼脅迫される義光の窮状訴えて「きちんと相談して2人結婚させる」と説得し燁子を連れ出すが、柳原家では龍介との間を断ち切るべく燁子を監禁した怒り震える義光は燁子に死ねとは言わないから出家しろとなじり、燁子の髪は切り落とされる新聞・雑誌身重の燁子が京都の寺にしばらく匿われた事、また尼になったなどという記事載るが、龍介はそれを見るばかりで全く連絡とれない状態になる。宮崎家には毎日罵詈雑言の手紙が届き、家の前を暴力団うろついた。あるとき右翼壮士が家に乗り込み、龍介が刺される事を警戒した母の子が着物の下に袋に入れた真綿を着させ、弟の震作が木刀持って襖の奧に控える中、罵声浴びせる男達ひたすら黙って龍介が対応した事もあった。父の滔天は病に伏せている状態であり、燁子と引き離され苦し日々の中、龍介は一高以来結核再発しかけていた。 事件から半年後の1922年大正11年3月二位局や宮内官僚警視総監財界右翼大物総掛かり説得された義光がようやく貴族院議員引責辞任する。この際、義光は新聞に「宮崎との結婚断じて認めない」と語っている。5月、燁子は龍介との間の男子出産する。龍介は柳原家出産の際には立ち会う事を申し入れていたが何の連絡もなく、子供の性別も分からないので、男女どちらでも付けられるよう名前を「香織」と決め出生届け出した一方宮内省では華族として体面を守るため、子供入江為守宮内官僚によって伝右衛門の子として出生届を出すべく図られており、燁子の手から取り上げられ兄嫁縁者預けられた。傷心の燁子は京都尼寺身を隠し、そこからようやく龍介に連絡を取る6月に龍介が尼寺密かに訪ね、ここで2人結婚届を作って判を押した事で、燁子はいつ解放される分からない監禁生活耐える大きな安心感得た。 龍介が尼寺訪れた事を知った柳原家では、燁子を別の場所に移動させる兄嫁柳原花子実姉である樺山常子川村純義の娘で、白洲正子実母)が「このまま尼さんにするのは忍びない」として、京都大本教祖・出口王仁三郎相談し信徒中野岩太中野武営息子)・宇城五郎に燁子の身柄託され7月京都綾部にある中野家別荘移った中野家身を隠す燁子に、九条武子自分縫った綿入れなど差し入れている。中野東京滔天尋ねて燁子の消息伝え喜んだ宮崎家からは、一家で燁子を励まし母子共に家族として迎える日を待つ事を伝え手紙託された。手紙9月に燁子の元に届けられるが、滔天12月死去して再会は叶わなかった。同12月には香織が燁子の手元に戻され母子共に東京お茶の水中野家本邸離れへ移る事となる。

※この「監禁と流浪」の解説は、「白蓮事件」の解説の一部です。
「監禁と流浪」を含む「白蓮事件」の記事については、「白蓮事件」の概要を参照ください。

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