監禁と流浪
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この間、燁子は伊藤との離縁が発表された後の1921年(大正10年)11月11日に山本の計らいで密かに宮崎家を訪れ、病床にあった龍介の父・滔天や家族らと初めて対面した。事件が起きるまで何も知らされていなかった滔天は、龍介に「どうしようもなくなったら、2人で心中してもいい。線香くらいは仏前にオレが立ててやる」と励ましたという。この3日後、近所に家を借り龍介と燁子は束の間の同棲生活をおくる。 しかしわずか2か月後の1922年(大正11年)1月16日、龍介の留守中に燁子の姉・入江信子と兄嫁の柳原花子が訪れ、燁子に右翼に脅迫される義光の窮状を訴えて「きちんと相談して、2人を結婚させる」と説得し燁子を連れ出すが、柳原家では龍介との間を断ち切るべく燁子を監禁した。怒りに震える義光は燁子に死ねとは言わないから出家しろとなじり、燁子の髪は切り落とされる。新聞・雑誌に身重の燁子が京都の寺にしばらく匿われた事、また尼になったなどという記事が載るが、龍介はそれを見るばかりで全く連絡がとれない状態になる。宮崎家には毎日罵詈雑言の手紙が届き、家の前を暴力団がうろついた。あるとき右翼の壮士が家に乗り込み、龍介が刺される事を警戒した母の槌子が着物の下に袋に入れた真綿を着させ、弟の震作が木刀を持って襖の奧に控える中、罵声を浴びせる男達にひたすら黙って龍介が対応した事もあった。父の滔天は病に伏せている状態であり、燁子と引き離された苦しい日々の中、龍介は一高以来の結核が再発しかけていた。 事件から半年後の1922年(大正11年)3月、二位局や宮内官僚・警視総監・財界・右翼の大物ら総掛かりで説得された義光がようやく貴族院議員を引責辞任する。この際、義光は新聞に「宮崎との結婚は断じて認めない」と語っている。5月、燁子は龍介との間の男子を出産する。龍介は柳原家に出産の際には立ち会う事を申し入れていたが何の連絡もなく、子供の性別も分からないので、男女どちらでも付けられるよう名前を「香織」と決め、出生届けを出した。一方、宮内省では華族としての体面を守るため、子供は入江為守ら宮内官僚によって伝右衛門の子として出生届を出すべく図られており、燁子の手から取り上げられ兄嫁の縁者に預けられた。傷心の燁子は京都の尼寺に身を隠し、そこからようやく龍介に連絡を取る。6月に龍介が尼寺を密かに訪ね、ここで2人の結婚届を作って判を押した事で、燁子はいつ解放されるか分からない監禁生活を耐える大きな安心感を得た。 龍介が尼寺を訪れた事を知った柳原家では、燁子を別の場所に移動させる。兄嫁・柳原花子の実姉である樺山常子(川村純義の娘で、白洲正子の実母)が「このまま尼さんにするのは忍びない」として、京都の大本教祖・出口王仁三郎に相談し、信徒の中野岩太(中野武営の息子)・宇城信五郎に燁子の身柄が託され、7月に京都・綾部にある中野家の別荘に移った。中野家に身を隠す燁子に、九条武子が自分で縫った綿入れなど差し入れている。中野は東京の滔天を尋ねて燁子の消息を伝え、喜んだ宮崎家からは、一家で燁子を励まし母子共に家族として迎える日を待つ事を伝える手紙が託された。手紙は9月に燁子の元に届けられるが、滔天は12月に死去して再会は叶わなかった。同12月には香織が燁子の手元に戻され、母子共に東京・お茶の水の中野家本邸の離れへ移る事となる。
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