療友会と療養所設立の経緯
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「サンフランシスコ・シャビエル肺結核療養所」の記事における「療友会と療養所設立の経緯」の解説
当初、細江はサンパウロ市郊外のトレメンベー区に家屋を借り、篤志家として知られていた山田正忠を管理人に据え、日系療養所とした。細江本人と同仁会の医師ペドロ・アレットが一日おきにこの施設を訪問し、患者を診察していた。しかし、近隣住民が肺結核患者の収容施設に猛反発したため、閉鎖に追い込まれてしまった。その後、細江はカンポス・ド・ジョルドン市に「療友会」という日系肺結核患者の療養施設があることを知り、療友会・会長の林田久七に依頼してトレメンベー療養所の患者を療友会で引き取ってもらった(療友会は1929年頃に林田久七が組織した自治合宿形式の療養所である)。以後、細江は毎月療友会を訪問し、診察を行った。 1935年度、予算外事業として同仁会は「同仁会臨時肺結核療養所」を同じカンポス・ド・ジョルドン市に開設。細江は両施設を月一で往診し、本格的な肺結核療養所の建設を熱望した。細江の熱意に打たれた林田は彼を時のカンポス・ド・ジョルドン市長アントニオ・ガヴィオン・ゴンザガへ紹介し、市長の協力を得ることに成功した。その後、細江はゴンザガ市長と共に当時のブラジル国外務大臣マセド・ソアレスに謁見し、説得に成功した。1935年12月12日、ソアレス外相はカンポス・ド・ジョルドン市中心から南西に約4キロ離れた場所に所有していた196,300平方メートルの土地を同仁会へ無償譲渡した。ただし、この土地寄贈は「1年以内に療養所を完成させる」との条件付きであった。 同仁会には建設資金は無く、総領事館へ資金援助を申請したところ、70コントの助成金を給付されることになった。しかし、競合入札を行ったところ、建設見積は240コント強となった。しかし、期限に間に合わなければ計画自体が頓挫するため、資金確保が出来ぬまま着工し、不足経費は追って調達することになった。療養所の設計、施工の総責任者として鈴木威建築技師と細江静男医師が選ばれ、細江の原案を元に鈴木が療養所の設計図を完成させた。そして、市の中心から建設予定地までの4キロの道路整備が行われ、限られた予算のため建築資材は2~3級品が使用された。鈴木は週2~3回、細江は週1回、林田久七にいたっては毎日、工事現場へ通った。この時の細江の交通費の半分以上は自費であった。建設資金が底をついた頃、細江と鈴木は日本国総領事と直接交渉し、追加金70コントを獲得。この時、給付金は同仁会を通さず、療養所へ直接送金された。以後、医療器機の購入資金も療養所に直接下付された。 そして、1936年11月8日、サナトリオ同仁会(同仁会肺結核療養所)の落成式が行なわれた。ソアレス外相との約束どおりの工期1年未満の完成であった。翌37年2月1日、開院式が行われ、同仁会肺結核療養所の初代院長には結核治療の権威クロヴィス・コレイア博士、初代看護主任には田中秀穂・元陸軍看護兵が就任した。そして、バストス時代の細江医師から指導を受けていた坂根源吾が看護と臨床検査を兼任した。運営方針としては次の三ヵ条が定められた: 困窮者を優先する 最後まで看病する 患者に職業訓練を行い、退院後の社会復帰を援助する 開院当初、療養所には75床あったが、多い時には病床を仮設し、100名近い患者を収容した。当時、サンパウロでの平均的な肺結核の入院費用は600~700ミルレイスであったが、サナトリオ同仁会は150ミルレイスの低料金にも関わらず未払いのまま退院する患者が多く、療養所は赤字経営を強いられていた。
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