甲州勝沼および野州梁田の戦いとは? わかりやすく解説

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甲州勝沼および野州梁田の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:19 UTC 版)

戊辰戦争」の記事における「甲州勝沼および野州梁田の戦い」の解説

詳細は「甲州勝沼の戦い」および「梁田の戦い」を参照 江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日幕府主戦派の中心人物小栗忠順罷免。さらに2月12日慶喜江戸城出て上野寛永寺謹慎し、明治天皇反抗する意志がないことを示した一方朝敵宣告受けた会津藩主・松平容保は、本拠地会津戻った。容保は新政府哀訴嘆願書提出し天皇への恭順姿勢示したが、新政府権威認めず武装は解かず、求められていた出頭謝罪もしなかった。その一方で先の江戸で薩摩藩騒乱行為取り締まったことで新政府から標的にされていた庄内藩藩主酒井忠篤は、会津藩と会庄同盟結成し薩長同盟対抗する準備進めた旧幕府属した人々は、あるいは国許謹慎し、またあるいは慶喜従い、またあるいは反新政府立場から会津藩等を頼り東北地方逃れた新政府有栖川宮熾仁親王を大総督とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した旧幕府軍は近藤勇らが率い甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城防衛拠点としようとした。しかし東山道進み信州にあった土佐藩士板垣退助薩摩藩士・伊地知正治率い新政府軍・約400人は、板垣率い迅衝隊甲州向かい甲陽鎮撫隊より先に甲府城到着し城を接収した甲陽鎮撫隊甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、西郷隆盛より開戦伝令受けたばかりで結束の高い迅衝隊新撰組撃退した新撰組局長近藤勇偽名使って潜伏したが、のち新政府捕縛され処刑された。武田遺臣構成され八王子千人隊慶応4年3月11日1868年)に八王子にて武器差し出し降伏一方東山道進んだ東山道軍の本隊は、3月8日武州熊谷宿到着3月9日近く田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊脱走部隊(後の衝鋒隊に対して朝霧紛れて三方からの奇襲攻撃しかけた幕府軍900人余は応戦し田宿一帯市街戦起こった最終的に幕府軍敗北決着がついた。この戦い梁田戦争とも呼ばれ戊辰戦争東日本における最初の戦い称される

※この「甲州勝沼および野州梁田の戦い」の解説は、「戊辰戦争」の解説の一部です。
「甲州勝沼および野州梁田の戦い」を含む「戊辰戦争」の記事については、「戊辰戦争」の概要を参照ください。

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