甲州小幡氏
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甲斐武田氏に仕えた一族。家紋は「五枚根笹」。 遠江国の国人・勝間田氏の出身。先祖の系譜関係は不詳、『寛政譜』では平良文流とする。上州小幡氏の同族とする系図もあるが、その伝承に疑わしい点が多く別系統と同族の2説がある。もとは遠江国勝間田にあったが、今川義忠によって勝間田氏が討伐され一族が離散したため、小畠日浄(盛次)のときに甲斐へ入り武田信虎に仕えた。このとき「小畠」姓とした。(今川家には小幡光重の一族、小畠久重がいた。)。『甲陽軍鑑』では、日浄が甲斐へ移ったのは明応9年(1500年)であり、足軽大将に任じられたとしている。また、『寛政譜』によれば、日浄は日蓮宗に帰依していたという。 日浄の子・小畠虎盛も遠江出身で、日浄とともに甲斐へ赴く。戦功から信虎の偏諱を受けて「虎」の一字を貰い、虎盛と名乗って「鬼虎」と称されたり、信虎・信玄より授かった感状36枚、身には41ヶ所にも及ぶ名誉ある傷を負っていたとする伝承がある。『甲陽軍鑑』によれば、虎盛は海津城(長野県長野市)の城代・春日虎綱の副将として海津城に配置されていたという。また、『甲陽軍鑑』によれば虎盛は臨終の際「よくみのほどをしれ」と9文字の遺言で子孫を戒めたという。 『寛永伝』によれば虎盛の子・小幡昌盛ときに信玄の命で「小畑」から「小幡」と改姓したという。『甲陽軍鑑』によれば、昌盛は虎盛と同様に海津城代に配置されたが、信玄の旗本であることを望み訴訟となるが、信玄の子息・勝頼と信玄の側近・土屋昌続の執り成しにより旗本として取り立てられたという。永禄末年の「武田信玄陣立書」では鉄砲衆として記載されており、実際に旗本であることが確認される。天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻の際には病床にあり、『甲陽軍鑑』『甲斐国志』によれば黒駒(笛吹市御坂町)付近まで赴くが、3月6日に死去したという。 武田氏滅亡後、昌盛の長男・昌忠は旗本となったが2代で断絶した。次男・在直は徳川家臣・井伊直政に仕えた(彦根藩士)。三男・景憲については後述する。 日浄の子・光盛は昌盛が旗本になったため虎盛の遺領・同心を継承し、海津城に配置される。武田氏滅亡跡は織田信長に従属し、本能寺の変後に越後国の上杉景勝に従属する。子孫は米沢藩主となった上杉家に仕えている。光盛は春日虎綱・惣二郎が記した『甲陽軍鑑』に加筆を行い、後に光盛の甥である昌盛の三男・小幡景憲に引き渡したという。小幡景憲は昌忠と同様に同じく旗本となり、後に『甲陽軍鑑』を編纂し甲州流軍学の祖といわれる。
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