甲州小幡氏とは? わかりやすく解説

甲州小幡氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 01:21 UTC 版)

小幡氏」の記事における「甲州小幡氏」の解説

甲斐武田氏仕えた一族家紋は「五根笹」。 遠江国国人勝間田氏出身先祖系譜関係は不詳、『寛政譜』では平良文流とする。上州小幡氏同族とする系図もあるが、その伝承に疑わしい点が多く別系統同族の2説がある。もとは遠江国勝間田にあったが、今川義忠によって勝間田氏討伐され一族離散したため、小畠日浄(盛次)のときに甲斐へ入り武田信虎仕えた。このとき「小畠」姓とした。(今川家には小幡光重一族小畠久重がいた。)。『甲陽軍鑑』では、日浄が甲斐へ移ったのは明応9年1500年)であり、足軽大将任じられたとしている。また、寛政譜によれば、日浄は日蓮宗帰依していたという。 日浄の子小畠虎盛遠江出身で、日浄とともに甲斐へ赴く戦功から信虎偏諱受けて「虎」の一字貰い、虎盛と名乗って鬼虎」と称されたり、信虎信玄より授かった感状36、身には41ヶ所にも及ぶ名誉ある傷を負ってたとする伝承がある。『甲陽軍鑑によれば、虎盛は海津城(長野県長野市)の城代春日虎綱副将として海津城に配置されていたという。また、甲陽軍鑑によれば虎盛は臨終の際「よくみのほどをしれ」と9文字遺言子孫戒めたという。 『寛永伝によれば虎盛の子小幡昌盛ときに信玄の命で「小畑」から「小幡」と改姓したという。『甲陽軍鑑によれば昌盛は虎盛と同様に海津城代配置されたが、信玄旗本であることを望み訴訟となるが、信玄の子息・勝頼と信玄側近土屋昌続執り成しにより旗本として取り立てられたという。永禄末年の「武田信玄陣立書」では鉄砲衆として記載されており、実際に旗本であることが確認される天正10年1582年3月織田徳川連合軍武田侵攻の際には病床にあり、『甲陽軍鑑』『甲斐国志によれば黒駒笛吹市御坂町付近まで赴くが、3月6日死去したという。 武田氏滅亡後昌盛長男・昌忠は旗本となった2代断絶した次男・在直は徳川家臣・井伊直政仕えた彦根藩士)。三男・景憲については後述する。 日浄の子・光盛は昌盛旗本になったため虎盛の遺領同心継承し海津城に配置される武田氏滅亡跡は織田信長従属し本能寺の変後越後国の上景勝従属する子孫米沢藩となった上杉家仕えている。光盛は春日虎綱・惣二郎記した甲陽軍鑑』に加筆行い、後に光盛の甥である昌盛三男小幡景憲引き渡したという。小幡景憲は昌忠と同様に同じく旗本となり、後に『甲陽軍鑑』を編纂し甲州流軍学の祖といわれる

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