生産の蹉跌と大改良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 19:05 UTC 版)
「GAZ-M20 ポピェーダ」の記事における「生産の蹉跌と大改良」の解説
最初の生産型ポピェーダは、公式には1946年6月21日にGAZ工場をラインオフした。しかし、そこからの量産化は容易に進まなかった。1946年末までに完成したポピェーダはわずかに20台ほどで、GAZ工場作業員によるハンドメイド的な方法で辛うじて製作されたものであった。 1947年4月末からようやく量産の道筋がつき始めたが、本格量産には程遠い状態だった。当時のソ連では、進んだ構造のボディパネルを作るに足る、大判の高品質鋼板の供給が得られなかった。また供給された鋼材の60%が品質基準を満たせなかった。 手に入る不十分な鋼板でモノコックボディを構築するため、生産現場は1台あたり20kgものハンダを浪費するなど悪条件に悩まされ、初期ポピェーダの車重は当初設計重量より200kgも超過し、性能は計画より著しく低下した。しかも鋼板の接合箇所が多過ぎ、雨漏りを多々起こすという具合で、品質ははなはだ悪かった。1948年10月の生産停止までに生産できた初期型M20ポピェーダはわずかに700台であった。ついに国家上層部からの指令でM20の製造は一時停止され、工場の責任者は更迭された。 結局開発陣は、346箇所もの改良と生産設備の大改善によって、未完成の度が過ぎたポピェーダを「まともな自動車」に更生させた。 リアのリーフスプリングは強化され、最終減速比は当初の4.7:1から5.125:1へと低速側に振られて、加速性能を改善した。新型キャブレターをはじめとするエンジンチューニングの改善が図られ、当時のソ連で多く供給されていた66オクタンの低グレードガソリンにも十分耐えられるようにされた。 ロシアの気候を考慮して、ヒーターシステムにも改善が加えられた。特記すべき点として前面窓の凍結を防ぐデフロスター・ダクトが装備されたが、これはアメリカ車の一部にも装備が始まって間もないシステムで、ロシアの酷寒を乗り切るために大いに役立つ機能となった。変わったところではリアシート座面が5 cm低くなったが、これは制服(軍服)を着用した軍人の乗車のため、天井の実質高さを稼ぐ手段だった。共産圏諸国の軍隊で多用される、権力の象徴のような大型制帽を着用したまま乗車できるようにしたのである(帽子着用が天井高さを規定したという点ではシトロエン・2CVとも共通するが、2CVは農民の礼装に際しての着帽を想定し、ポピェーダは権力層たる軍人の着帽を想定したもので、背景は対極である)。
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