生物兵器の培養
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:49 UTC 版)
第10サティアンに隣接したプレハブ建物・ジーヴァカ棟(CMI棟)を研究施設として与えられ、ボツリヌス菌、炭疽菌、ペスト菌などの細菌兵器の培養を行うなど、教団の生物兵器の全権を握っていた。 麻原らが首都圏各地にこれらの菌を撒いたが、いずれも効果は無かった(亀戸異臭事件、オウム真理教の国家転覆計画も参照)。またオウム真理教被害者対策弁護団の中心人物滝本太郎弁護士の毒殺をねらって脱会交渉の場でボツリヌス菌を塗布したコップでジュースを飲ませたが、ボツリヌス菌が培養出来ていなかったためこれも健康被害はなかった。地下鉄サリン事件直前には霞ケ関駅でボツリヌストキシン散布を試みたが失敗した。 まずボツリヌス菌によるテロの着想は、1989年の4月に麻原の4女・松本聡香が生まれた際に、出産に立ち会った遠藤が麻原に対し「蜂蜜にはボツリヌス菌が含まれるので乳児に与えないように」と進言したことにあった。これによりボツリヌス菌に興味を抱いた麻原は、遠藤からボツリヌス菌が世界最強の毒である旨を聞かされ、のちに選挙戦大敗による教団武装化を企てた際に、これを思い出した麻原が遠藤にボツリヌス菌の大量培養を命じた。その後、遠藤は早川紀代秀、新実智光らとともに北海道の奥尻島や石狩川の流域へ行き、ボツリヌス菌が含まれる土を採取した。持ち帰った土のサンプルを取り、各部分を培養してボツリヌス菌を増殖させようとして、ベンチ規模・プラント規模で何度も培養を試みるが、結局生物兵器としてのボツリヌス菌大量培養は失敗に終わった。 1992年夏から秋頃、次に遠藤は生物兵器として名高い炭疽菌の培養にも着手した。炭疽菌には多くの菌種があるが、遠藤はまず無害の菌種を採用し、それを遺伝子工学の手法で毒性を持つ有害菌種に変換しようとしたが失敗。他にもフグ毒などの海産毒も調査をしていたが、資料不足のため断念。遠藤の生物兵器開発に教団は大量の人員と資金を投入していたが、遠藤がこれらの失敗を重ねたために麻原は遠藤への信頼を失くし、その後、麻原、村井秀夫、新実智光、上祐史浩ら男性幹部の会議により、失敗続きの生物兵器より経済効率も良い化学兵器を中心に開発する方針が定まり、遠藤に当てられていた「科学者」としてのスポットライトは化学兵器担当の土谷に注がれるようになった。結局遠藤の培養した生物兵器によるテロは一度も成功していない。 オウム出版『日出づる国、災い近し』に「北海道大学医学部卒の聖者ジーヴァカ正悟師」として登場、ハルマゲドン時に使われるであろう新しい生物兵器と、それらの対策や治療方法について意見を述べている(なお遠藤は北大卒ではないが、詐称したのか誤植かは不明。土谷は遠藤から北大出身だと聞かされ信じこんでいたという)。
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