生活の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:27 UTC 版)
「名古屋市女子大生誘拐殺人事件」の記事における「生活の崩壊」の解説
しかし、木村は一宮市内の寿司屋に勤め始めたのち、一宮競輪場が近くにあったことから、習い覚えた競輪などに凝り、1978年(昭和53年)3月頃には約200万円の借金を抱えた。母親に立替えてもらった金で借金を清算した後は、ギャンブルも控えて安定した生活を送っていたが、妻は実家が近い上、毎日母親と顔を合わせる生活から、自然と実家を頼る傾向にあった。木村は次第にこれに不満を抱くようになり、同年末には名古屋市内に自ら寿司店を開業し、妻の実家から独立しようと計画し、そのことを妻の了承を得た上で準備を進めていたが、これを知った義父から「現実性のない計画だ」と反対され、やがて妻も反対に転じたことから、木村の妻に対する愛情は「自分の気持ちを理解しようとしない」ことから、急速に冷えていった。 木村はその後、義父から寿司屋の経営一切を任され、仕事に励むようになった。また、その頃銀行でローンを組み、蟹江町内に土地を購入し、その返済のため、1979年(昭和54年)2月頃から、大叔父の鮮魚の行商の手伝いも始めるようになった。その間、木村は早朝4時に出勤し、名古屋市内にある柳橋中央市場から鮮魚類を仕入れ、これを各地に配達した後、寿司屋に出て午後10時頃まで働くという、勤勉な生活をするようになり、寿司屋の月収約15万円のほか、鮮魚行商の副業からも月20万円近い収入を得るようになり、不自由のない生活を送っていた。しかし同年8月、妻に対する愛情が薄らいでいたことから、たまたま出席した中学校のクラス会で再会した、夫との関係が思わしくなかった同級生の女性と不倫関係となった。これを知った女性の夫らから、同年末頃妻の面前で、別れるよう求められて承諾したが、やがて女性は子供を連れて夫と別居し、翌1980年1月頃、名古屋市名東区猪高町内のアパートに移住した。これに対し木村は、蟹江町の土地を担保に、金融業者から200万円の借金をするなどして、愛人となった女性のアパートの入居費用を負担し、新しい家財道具などを買い揃えた上、妻には「仕事の都合」などと嘘をついては、頻繁に愛人宅に泊まり込むようになった。その後、毎月約20万円の生活費を愛人に渡し、蟹江町と猪高町の二重生活を続けるようになってから、木村は次第に金銭に窮するようになった。 このように、木村は毎月妻には内緒で愛人の生活費という多額の出費を抱えるようになり、前述のローンの利息だけでも月10万円近くになる一方、寿司屋の利益・鮮魚行商による売り上げ収入は妻に渡していたため、手っ取り早くまとまった金を得る必要に迫られた。やがて木村は、しばらく遠ざかっていた競輪・競馬などのギャンブルに再び手を出すようになり、これに負けては更に各地の金融業者や親類、知人から借金をしては、再びギャンブルに注ぎ込むという、典型的なギャンブル依存症となった上、競輪・競馬のノミ屋にも多額の申し込みをして借金を作り、挙句の果てには大叔父に支払うべき鮮魚行商の売上金にも手を付ける有様となった。同年11月頃、これら借金の総額は約2800万円の多額に達し、その利息だけでも月約80万円にのぼり、その返済を迫られるようになったが、金のあてもない上に、もともと不倫関係を発端とする借金だけに、誰にも相談することができず、一時は自殺を考えるほど追い詰められていた。
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