生活の苦難〜村民たちとの絆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 20:23 UTC 版)
「白井柳治郎」の記事における「生活の苦難〜村民たちとの絆」の解説
日清戦争から日露戦争を経て、日本が次第に軍国主義に傾いてゆくと、その国家政策において教員の給料が大幅に減俸された。これによって、ただでさえ給料の少なかった白井の生活は、たちまち立ち行かなくなった。 折しも白井には、ハワイの日本人教師の話が持ち上がっており、この地は自分に合わないかもしれない、ハワイも悪くないと考え始めた。ところがハワイ行きの話を知った虻田コタンの人々は、一斉に白井のもとへ駆けつけ「先生がいなくなったら子供たちも自分たちも困る」「辞めないでくれ」と必死に訴えた。コタンのみならず、役所の人間や寺の住職まで、何日もわたって白井のもとを訪れ、ある者は必死に説得し、ある者は涙を流して白井を引きとめた。学校の生徒たちの父母は、カンパで集めた金を生活費として白井に届けた。白井は、自分以上に貧しい暮らしをしている人々のその真心に涙し、虻田に骨を埋めることを決意した。 1915年(大正4年)、白井の功労が認められ、文部大臣から教育功績賞を授与され、150円の賞金が贈られた。白井はこの賞金を「村の皆が支えてくれたから頂いたものだから、自分1人で使うことはできない」といって、村のために役立てるべく、村への全額寄付を申し出た。白井の年収にあたる大金の寄付に、周囲からは「正気ですか?」の声すら上がった。この寄付金によって記念館が建てられ、村民のレクリエーションの場として活用された。
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