生活の党時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:09 UTC 版)
2012年12月27日に衆議院選挙の惨敗を受けて、日本未来の党で嘉田派と小沢派が対立して分裂し、小沢が率いる生活の党に入党して党代表に就いた。2013年1月25日に生活の党代表を辞任して新設の代表代行に就き、小沢一郎が代表に就いた。 2013年7月の第23回参議院議員通常選挙に、新潟県選挙区から生活の党公認で立候補した。生活の小沢一郎代表が浦佐駅前にある故田中角栄元首相の銅像前で「おやじの志を引き継ぐ党は私たちだけだ」と応援演説をしたが、劣勢は覆せず落選する。森は「多勢に無勢の戦いだった」と敗戦の弁を語っている。 2014年11月の第47回衆議院議員総選挙に、田中眞紀子の不出馬で民主党候補の空白域となっていた新潟5区から立候補すると発表し、11月に鈴木克昌の民主党移籍に伴い代表代行に復帰する。2014年12月の第47回衆議院議員総選挙に新潟5区から立候補するも自民党の長島忠美に敗れて落選。
※この「生活の党時代」の解説は、「森裕子」の解説の一部です。
「生活の党時代」を含む「森裕子」の記事については、「森裕子」の概要を参照ください。
生活の党時代 (2013-2014)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/29 21:44 UTC 版)
「自由党 (日本 2016-)」の記事における「生活の党時代 (2013-2014)」の解説
2013年1月11日、初の両院議員総会を開催。1月25日には結党大会が開かれ、森が代表を辞任。新代表に小沢が選出された。 2013年7月21日に行われた第23回参議院議員通常選挙に代表代行の森ら現職6名を含む11人の候補者を擁立したが、全員落選した。敗因について、小沢は「メディアが生活の党を積極的に取り上げなかったからだ」と語った。国会議員は総勢9人(衆7・参2)となる。選挙を受けた党役員人事を8月2日の両院議員総会で決定し、幹事長の鈴木が代表代行を兼務、参議院議員の谷亮子を副代表兼参議院幹事長などとなった。 2014年12月の第47回衆議院議員総選挙では、自由民主党に対する批判票が分散することを防ぐために、野党各党が選挙区への立候補を融通しあうなど、一部で選挙協力が行われた。生活の党では、小沢が党所属議員らを集めた会合で「みんなの好きなようにしなさい。生き残れるような道を選びなさい」と発言し、他党から衆院選に立候補することを容認した。小沢自ら民主党代表代行・岡田克也と会談して合意形成したことから、総選挙後の野党再編を睨んだ動きとも見られた。その後小沢の右腕とされていた鈴木克昌と小宮山泰子が離党して民主党へ復党したほか、党員の一部は維新の党へも移籍した。鈴木の後任の代表代行には前職の森が復帰、幹事長職は一時空席とし、小宮山の務めていた選挙対策委員長は小沢が自ら兼任することとなった。 総選挙の結果は、鈴木と小宮山はいずれも当選したものの、生活の党で当選したのは、代表の小沢と、野党統一候補として他党から枠を譲られた玉城デニー(沖縄3区)の2名にとどまった。国会議員は総勢4人(衆2・参2)に留まり、また得票率も2%に満たなかったために、投開票日の12月14日に公職選挙法による政党要件を失った。 12月26日、無所属の参議院議員山本太郎(政治団体新党ひとりひとり代表)が入党し、国会議員が5人となったために政党要件を回復し、名称を「生活の党と山本太郎となかまたち」に改称した。 なお、これに先立つ12月15日には山本の公設秘書はたともこを代表とする別の政治団体「山本太郎となかまたち」(略称:山本太郎)の設立が届出され、名目上は「生活の党」と「山本太郎となかまたち」が合流してできた新党という形をとる。はたは「生活の党と山本太郎となかまたち」の設立が報道された後の27日に、2016年の参議院選挙には「山本太郎となかまたち」が比例候補を擁立すると表明していた。
※この「生活の党時代 (2013-2014)」の解説は、「自由党 (日本 2016-)」の解説の一部です。
「生活の党時代 (2013-2014)」を含む「自由党 (日本 2016-)」の記事については、「自由党 (日本 2016-)」の概要を参照ください。
生活の党時代 (2013-2014)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:44 UTC 版)
「自由党 (日本 2016-2019)」の記事における「生活の党時代 (2013-2014)」の解説
2013年1月11日、初の両院議員総会を開催。1月25日には結党大会が開かれ、森が代表を辞任。新代表に小沢が選出された。 2013年7月21日に行われた第23回参議院議員通常選挙に代表代行の森ら現職6名を含む11人の候補者を擁立したが、全員落選した。敗因について、小沢は「メディアが生活の党を積極的に取り上げなかったからだ」と語った。国会議員は総勢9人(衆7・参2)となる。選挙を受けた党役員人事を8月2日の両院議員総会で決定し、幹事長の鈴木が代表代行を兼務、参議院議員の谷亮子を副代表兼参議院幹事長などとなった。 2014年12月の第47回衆議院議員総選挙では、自由民主党に対する批判票が分散することを防ぐために、野党各党が選挙区への立候補を融通しあうなど、一部で選挙協力が行われた。生活の党では、小沢が党所属議員らを集めた会合で「みんなの好きなようにしなさい。生き残れるような道を選びなさい」と発言し、他党から衆院選に立候補することを容認した。小沢自ら民主党代表代行・岡田克也と会談して合意形成したことから、総選挙後の野党再編を睨んだ動きとも見られた。その後小沢の右腕とされていた鈴木克昌と小宮山泰子が離党して民主党へ復党したほか、党員の一部は維新の党へも移籍した。鈴木の後任の代表代行には前職の森が復帰、幹事長職は一時空席とし、小宮山の務めていた選挙対策委員長は小沢が自ら兼任することとなった。 総選挙の結果は、鈴木と小宮山はいずれも当選したものの、生活の党で当選したのは、代表の小沢と、野党統一候補として他党から枠を譲られた玉城デニー(沖縄3区)の2名に留まり、北海道、中国、四国を除く8ブロックに候補者を出した比例区からの当選者はなかった。国会議員は総勢4人(衆2、参2)に留まり、また得票率も2%に満たなかったために、投開票日の12月14日に公職選挙法による政党要件を失った。 12月26日、無所属の参議院議員山本太郎(政治団体新党ひとりひとり代表)が入党し、国会議員が5人となったために政党要件を回復し、名称を「生活の党と山本太郎となかまたち」に改称した。 なお、これに先立つ12月15日には山本の公設秘書はたともこを代表とする別の政治団体「山本太郎となかまたち」(略称:山本太郎)の設立が届出され、名目上は「生活の党」と「山本太郎となかまたち」が合流してできた新党という形をとる。はたは「生活の党と山本太郎となかまたち」の設立が報道された後の27日に、2016年の参議院選挙には「山本太郎となかまたち」が比例候補を擁立すると表明していた。
※この「生活の党時代 (2013-2014)」の解説は、「自由党 (日本 2016-2019)」の解説の一部です。
「生活の党時代 (2013-2014)」を含む「自由党 (日本 2016-2019)」の記事については、「自由党 (日本 2016-2019)」の概要を参照ください。
- 生活の党時代のページへのリンク