環 (数学)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 04:44 UTC 版)
数学における環(かん、英: ring)とは、台集合に「加法」(和)および「乗法」(積)と呼ばれる二種類の二項演算を備えた代数系のことである。
最もよく知られた環の例は、整数全体の成す集合に自然な加法と乗法を考えたものである(これは乗法が可換だから可換環の例でもある)。ただし、それが環と呼ばれるためには、環の公理として、加法は可換で、加法と乗法はともに結合的であって、乗法は加法の上に分配的で、各元は加法逆元をもち、加法単位元が存在すること、が全て要求される。したがって、台集合は加法の下「加法群」と呼ばれるアーベル群を成し、乗法の下「乗法半群」と呼ばれる半群であって、乗法は加法に対して分配的であり、またしばしば乗法単位元を持つ[注 1]。なお、よく用いられる環の定義としていくつか流儀の異なるものが存在するが、それについては後述する。
環について研究する数学の分野は環論として知られる。環論学者が研究するのは、(整数環や多項式環などの)よく知られた数学的構造やもっと他の環論の公理を満たす多くの未だよく知られていない数学的構造のいずれにも共通する性質についてである。環という構造のもつ遍在性は、数学の様々な分野において同時多発的に行われた「代数化」の動きの中心原理として働くことになった[1]。
また、環論は基本的な物理法則(の根底にある特殊相対性)や物質化学における対称現象の理解にも寄与する。
環の概念は、1880年代のデデキントに始まる、フェルマーの最終定理に対する証明の試みの中で形成されていった。他分野(主に数論)からの寄与もあって、環の概念は一般化されていき、1920年代のうちにエミー・ネーター、ヴォルフガング・クルルらによって確立される[2]。活発に研究が行われている数学の分野としての現代的な環論では、独特の方法論で環を研究している。すなわち、環を調べるために様々な概念を導入して、環をより小さなよく分かっている断片に分解する(イデアルを使って剰余環を作り、単純環に帰着するなど)。こういった抽象的な性質に加えて、環論では可換環と非可換環を様々な点で分けて考える(前者は代数的数論や代数幾何学の範疇に属する)。特に豊かな理論が展開された特別な種類の可換環として、可換体があり、独自に体論と呼ばれる分野が形成されている。これに対応する非可換環の理論として、非可換可除環(斜体)が盛んに研究されている。なお、1980年代にアラン・コンヌによって非可換環と幾何学の間の奇妙な関連性が指摘されて以来、非可換幾何学が環論の分野として活発になってきている。
定義と導入
原型的な例
最もよく知られた環の例は整数全体の成す集合 Z に、通常の加法と乗法を考えたものである。すなわち Z は所謂「環の公理系」と呼ばれる種々の性質を満たす。
加法 | 乗法 | |
---|---|---|
演算の閉性 | a + b は整数 | a × b は整数 |
結合性 | a + (b + c) = (a + b) + c | a × (b × c) = (a × b) × c |
可換性 | a + b = b + a | a × b = b × a |
中立元の存在性 | a + 0 = a (零元) | a × 1 = a (単位元) |
反数の存在性 | a + (−a) = 0 | |
分配性 | a × (b + c) = (a × b) + (a × c), および (a + b)× c = a × c + b × c |
乗法が可換律を満たすから、整数の全体は可換環である。
厳密な定義
環とは、集合 R とその上の二つの二項演算、加法 +: R × R → R および乗法 ∗: R × R → R の組 (R,+,∗) で、「環の公理系」と呼ばれる以下の条件を満たすものを言う[3](環の公理系にはいくつか異なる流儀があるが、それについては後で触れる)。
- 加法群:(R, +) はアーベル群である
- 分配律:乗法は加法の上に分配的である
-
- 左分配律:任意の a, b, c ∈ R に対して a ∗ (b + c) = (a ∗ b) + (a ∗ c) が成り立つ。
- 右分配律:任意の a, b, c ∈ R に対して (a + b) ∗ c = (a ∗ c) + (b ∗ c) が成り立つ。
が成り立つものをいう。乗法演算の記号 ∗ は普通省略されて、a ∗ b は、ab と書かれる。
よく知られた整数全体の成す集合 Z, 有理数全体の成す集合 Q, 実数全体の成す集合 R あるいは複素数全体の成す集合は通常の加法と乗法に関してそれぞれ環を成す。また別な例として、同じサイズの正方行列全体の成す集合も行列の和と乗法に関して環を成す(この場合の環としての零元は零行列、単位元は単位行列で与えられる)。
自明な例
(中身は実際には何でもよいから)一元集合 {0} に対して、演算を
- 0 + 0 = 0
- 0 × 0 = 0
で定めるとき、({0}, +, ×) が環の公理を満たすことはすぐに分かる(これを自明環という)。実際、任意の和も積もただ一つ 0 にしかならないので、加法や乗法が閉じていて分配律を満たすのは明らかであるし、零元も単位元もともに 0 であって、0 の加法逆元は 0 自身である。自明環は零環[注 3]の自明な例になっている。
定義に関する注意
公理的な取り扱いにおいて、文献によってはしばしば異なる条件を公理として課すことがあるので、そのことに留意すべきである。環論の場合例えば、公理として「環の乗法単位元が加法単位元と異なる」という条件 1 ≠ 0 を課すことがある。これは特に「自明な環は環の一種とは考えない」と宣言することと同じである。
もっと重大な差異を生む流儀として、環には「乗法の単位元の存在を要求しない」というものがある[4][5][6]。これを認めると、例えば偶数全体 2Z も通常の加法と乗法に関する環となると考えることができる(実際にこれは乗法単位元の存在以外の環の公理を全て満足する)。乗法単位元の存在以外の環の公理を満足する環は、しばしば擬環 (pseudo-ring) とも呼ばれ、あるいは多少おどけて(ring だけれども乗法単位元 i が無いからということで)"rng" と書かれることもある。これと対照的に、乗法単位元を持つことを強調する場合には、単位的環や単位環 (unital ring, unitary ring) あるいは単位元を持つ環 (ring with unity, ring with identity, rings with 1) などと呼ぶ[7]。ただし、非単位的環を単位的環に埋め込むことは常にできる(単位元の添加)ということに注意。
他にも大きな違いを生む環の定義を採用する場合があり、例えば、環の公理から乗法の結合性を落として、非結合環あるいは分配環と呼ばれる環を考える場合がある。本項では特に指定の無い限りこのような環については扱わない。
少しだけ非自明な例
集合 ℤ /4 ℤを集合4 ℤ, 1+4ℤ, 2+4ℤ, 3+4ℤ からなる集合とし、後に述べるような加法と乗法を定めるものとする(任意の整数 x に対して、それを 4 で割った余り x mod 4 の成す剰余類環)。
- 任意の x+4 ℤ, y +4 ℤ∈ℤ /4 ℤ に対して x + y +4 ℤ は、それを整数と見ての和の mod 4。したがって ℤ /4 ℤの加法構造は、下に掲げた表の左側のようになる。
- 任意の x+4ℤ, y +4ℤ∈ ℤ /4 ℤに対して x ⋅ y+4ℤ は、それを整数と見ての積の mod 4。したがってℤ /4 ℤ の乗法構造は、下に掲げた表の右側のようになる。
· | 0 | 1 | 2 | 3 |
---|---|---|---|---|
0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1 | 0 | 1 | 2 | 3 |
2 | 0 | 2 | 0 | 2 |
3 | 0 | 3 | 2 | 1 |
+ | 0 | 1 | 2 | 3 |
---|---|---|---|---|
0 | 0 | 1 | 2 | 3 |
1 | 1 | 2 | 3 | 0 |
2 | 2 | 3 | 0 | 1 |
3 | 3 | 0 | 1 | 2 |
この ℤ /4 ℤがこれらの演算に関して環を成すことは簡単に確認できる(特に興味を引く点はない)。まずは、ℤ /4 ℤ が加法に関して閉じていることは表を見れば(0, 1, 2, 3 以外の元は出てこないから)明らかである。ℤ /4 ℤ における加法の結合性と可換性は整数全体の成す環 Z の性質から導かれる(可換性については、表の主対角線に対する対称性からも一見して直ちに分かる)。0 が零元となることも表から明らかである。任意の元 x のマイナス元が常に存在することも、それを整数と見ての (4 − x) mod 4 が所要のマイナス元であることから分かる(もちろん表を見ても確かめられる)。故に ℤ /4 ℤ は加法の下でアーベル群になる。同様にℤ /4 ℤ が乗法に関して閉じていることも右側の表から分かり、ℤ /4 ℤ における乗法の結合性は(可換性も)Z のそれから従い、1 が単位元を成すことも表を見れば直ちに確かめられる。故に ℤ /4 ℤ は乗法の下モノイドを成す。ℤ /4 ℤ において乗法が加法の上に分配的であることは、Z におけるそれから従う。まとめれば、確かに ℤ /4 ℤ が与えられた演算に関して環を成すことが分かる。
- ℤ /4 ℤ の環としての性質
-
- 整数の乗法においては、二整数 x, y の積が xy = 0 を満たすならば x = 0 または y = 0 が成り立つが、環 (ℤ /4 ℤ, +, ⋅) では必ずしもそれは成立せず、例えば 2 ⋅ 2 = 0 が各因数が 0 ではないにもかかわらず成り立つ。一般に、環 (R, +, ⋅) の非零元 a が (R, +, ⋅) における零因子であるとは、R の非零元 b で ab = 0 を満たすものが存在するときに言う。環 ℤ /4 ℤにおいては 2+4 ℤ が唯一の零因子である(なお、0 を零因子と扱うこともあることに注意)。
- 零因子を持たない可換環は整域と呼ばれる(後述)。故に整数全体の成す環 Z は整域であり、一方ℤ /4 ℤは整域ではない環である。
環の初等的性質
環の加法や乗法に関する定義からの直接的な帰結として、環の様々な性質が導かれる。
特に、定義から (R, +) はアーベル群であるから、加法単位元の一意性や各元に対する加法逆元の一意性など群論の定理を適用して得られる性質はたくさんある。乗法についても同様にして単元に対する逆元の一意性などが示される。
しかし、環においては乗法と加法を組み合わせた様々な特徴的性質も存在する。例えば、
- 任意の元 a について a0 = 0a = 0 が成り立つ。
- 単位的環において 1 = 0 ならば、その環にはたった一つの元しか含まれない。
- 乗法の単位元が存在するとき −a = (−1)a が成り立つ。
- (−a)(−b) = ab が成り立つ。
などが任意の環において示される。
例
- 環論の歴史的な動機付けとなった例として整数や代数的整数のなす環があげられる。
- 有理数全体の成す集合 Q、実数の全体の成す集合 R あるいは複素数の全体の成す集合 C はそれぞれ環をなす。実際、それらは体でもある。
- n を正の整数とするとき、n を法とする整数の集合 Z / nZ は環である(この記法については、以下の剰余環を参照)。
- 閉区間 [a, b] で定義されるすべての実数値連続関数のなす集合 C[a, b] は環(さらに実数体上の多元環 )をなす。演算は関数の各点での値ごとに関する加法と乗法で入れる。すなわち、関数 f(x) および g(x) の和と積は、次のような値をとる関数として定義される。
環論の祖の一人、デデキントの肖像 環の研究の源流は多項式や代数的整数の理論にあり、またさらに19世紀中頃に超複素数系が出現したことで解析学における体の傑出した価値は失われることとなった。
1880年代にデデキントが環の概念を導入し[2]、1892年にヒルベルトが「数環」(Zahlring) という用語を造って「代数的数体の理論」(Die Theorie der algebraischen Zahlkörper, Jahresbericht der Deutschen Mathematiker Vereinigung, Vol. 4, 1897.) を発表した。ハーヴェイ・コーエンによれば、ヒルベルトは "circling directly back" と呼ばれる性質を満たす特定の環に対してこの用語を用いている[9]。
環の公理論的定義を始めて与えたのは、フレンケルで、Journal für die reine und angewandte Mathematik (A. L. Crelle), vol. 145, 1914. におけるエッセイの中で述べている[2][10]。1921年にはネーターが、彼女の記念碑的論文「環のイデアル論」において、可換環論の公理的基礎付けを初めて与えている[2]。
環の構成法
環が与えられたとき、それを用いて新しい環を作り出す一般的な方法がいくつか存在する。
剰余環
→詳細は「剰余環」を参照感覚的には環の剰余環は群の剰余群の概念の一般化である。より正確に、環 (R, +, · ) とその両側イデアル I が与えられたとき、剰余環あるいは商環 R/I とは、I による(台となる加法群 (R, +) に関する)剰余類全体の成す集合に
- (a + I) + (b + I) = (a + b) + I,
- (a + I)(b + I) = (ab) + I.
という演算を入れたものをいう。ただし、a, b は R の任意の元である。
多項式環
→詳細は「多項式環」を参照(R, +R, ·R) を環とし、R 上の実質有限列(有限個の例外を除く全ての項が 0 となる無限列)の全体を