理研科学映画(1938年 - 1946年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/31 06:22 UTC 版)
「理研科学映画」の記事における「理研科学映画(1938年 - 1946年)」の解説
1938年4月26日、理化学研究所の理研産業団(理研コンツェルン)の一つとして設立された。設立の目的は、映画のトーキーシステムのなかで注目されていた、理研トーキー方式(大河内正敏研究室の渡辺俊平によって開発されたX線を用いた新しい録音法)という画期的な新録音法発明と現像の自動化というイノベーションを実践するためのものだった。同時に、科学映画の製作という目的もあわせもっていた。理化学研究所主任研究員海老原敬吉の下に、「機械工作シリーズ〔旋盤編・フライス盤編〕」など工場や学校向けの教材映画を製作した。 1939年、農林省の鳥獣調査室に勤務していた鳥類研究者・下村兼史が入社。下村は、同年、『水鳥の生活−第一輯−』(16分)を完成。 1940年、北九州周辺や有明海の鳥たちの生態をとらえた記録映画『或日の干潟』(25分)が文部大臣賞、皇紀2600年奉祝芸能祭文化映画コンクール首席となる。 1942年、下村兼史監督『慈悲心鳥』製作。 1943年1月、文化映画製作会社を日本映画社、朝日映画社、電通映画社、理研科学映画に統合整理。都映画社、劦映社、新世紀映画社などが理研科学映画に併合。その内、山口シネマ・加治商会・旭日映画社3社は廃業届を呈出 1943年、加藤泰監督『泡』。9月、音楽家の柴田南雄が嘱託として入社。 1944年、陸海軍からの委託作品の製作が増え、委託製作の訓練映画=「術科映画」の発注もあった。緊急指導映画として、委託を受けた『爆風と弾片』を製作。 1945年、兵器を組み立てる小学生を描く『教室工場』を製作。敗戦後の同年11月に理研科学映画株式会社の全重役が退陣。同年12月1日、松竹、東宝、大日本映画製作の劇映画3社と理研科学映画を含むニュース短篇教育映画4社によって、GHQや政府との窓口として「映画製作者連合会」発足。
※この「理研科学映画(1938年 - 1946年)」の解説は、「理研科学映画」の解説の一部です。
「理研科学映画(1938年 - 1946年)」を含む「理研科学映画」の記事については、「理研科学映画」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
かつて存在した東京都の企業 |
イ・アイ・イ・インターナショナル インクスティック 理研科学映画 西武不動産流通 富士銀行 |
ドキュメンタリー映画 |
エルビス・オン・ステージ 戦ふ兵隊 理研科学映画 記憶と記録の間で Afterimages 荒井英郎 |
かつて存在した日本の映画会社 |
錦輝館 南旺映画 理研科学映画 横田商会 山川興行部 |
日本の映画製作会社 |
甲陽撮影所 市川小文治歌舞伎映画プロダクション 理研科学映画 横田商会 山川興行部 |
映画配給会社 |
トライスター・ピクチャーズ ギャガ 理研科学映画 横田商会 山川興行部 |
理研グループ |
理研コランダム 三愛プラント工業 理研科学映画 理研ビタミン リコージャパン |
Weblioに収録されているすべての辞書から理研科学映画を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 理研科学映画のページへのリンク