現実の蟹工船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 14:07 UTC 版)
蟹工船は日本で発明され実用化された船で1916年(大正5年)に和嶋貞二が商業化した。 夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て三ヶ月から半年程度の期間活動していた。蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨物船として運行しており、専用の船があったわけではない。蟹の缶詰は欧米への輸出商品として価値が高かったため、大正時代から昭和40年代まで多くの蟹工船が運航されていた。 1926年(大正15年)9月8日付け『函館新聞』の記事には「漁夫に給料を支払う際、最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議するものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという証言もある。『脱獄王 白鳥由栄の証言』(斎藤充功)において、白鳥由栄(1907年生まれ)は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からもらって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている。1926年に15歳で蟹工船に雑夫として乗った高谷幸一の回想録では陸で働く10倍にもなると述べているが、単調な1日20時間労働で眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で大半は1年で辞めるところ、高谷幸一は金のために5年も働いたと証言している。漁夫雑夫でも米1日八合が支給され、食事量は陸上よりも多く、幹部は乾燥鶏卵やハムなどが食べられ、当時としては食事はよかった。 小説発表後も1930年(昭和5年)にエトロフ丸で、虐待によって死者を出した事件も起きている。1930年9月19日の出漁中、漁夫に20時間労働を強制し、死者十数人を出した蟹工船エトロフ丸が函館に入港し、首謀者が検挙された。 高い給料を貰える代わりに睡眠時間は短く、狭い漁船の中で何カ月も過ごさなくてはならず(監禁に近い)、ストレスや過労により精神がおかしくなり、陸では温厚な人物ですら、鬼に変えてしまうほど精神的に追い詰められていた。 蟹工船形式の操業は戦後も続き、1970年代、200カイリ経済水域の設定による北洋漁業廃止まで行われていた。
※この「現実の蟹工船」の解説は、「蟹工船」の解説の一部です。
「現実の蟹工船」を含む「蟹工船」の記事については、「蟹工船」の概要を参照ください。
- 現実の蟹工船のページへのリンク