珪石鉱床の発見と開発
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「伊豆珪石鉱山」の記事における「珪石鉱床の発見と開発」の解説
宇久須の珪石鉱床は、1897年に遠江出身の山内弥三郎が発見したと伝えられている。山内は宇久須で珪石を採掘、粉砕した上で輸送、販売する事業を起こしたが、約3年で事業中止となった。その後6名の人物が鉱山事業に取り組んだものの、全員成功しなかった。 1933年、旭硝子は賀茂郡宇久須村の珪石鉱床についての情報を入手し、調査を開始した。板ガラス製造に欠かせない珪砂は、旭硝子では創業時から和歌山県白浜町湯崎の白浜海岸の砂を利用していたが、二酸化ケイ素以外の不純物の含有量が多い上に埋蔵量も少なく、ガラス原料には不向きであった。 旭硝子としては日本各地で良質な珪砂の発見に努めたものの、なかなか良いものが見つからなかった。そこで朝鮮半島や中国方面にも調査の手を伸ばしたところ、1914年に全羅南道の木浦近くの大黒山島、そして1917年には黄海道の九味浦で良質な珪砂を発見した。中でも九味浦の珪砂は二酸化ケイ素の含有量が97パーセントを超え、埋蔵量も豊富でありガラス原料として優良であった。 埋蔵量が少なかった大黒山島の珪砂は約10年で枯渇したものの、九味浦の珪砂は安定的に供給され続け、戦前期の旭硝子の主要珪砂供給源となった。しかし旭硝子は板ガラスの需要拡大を見て、更なる珪砂資源の確保に努めた。そのような中で検討された方法の一つが、珪石を細かく粉砕して珪砂を得る方法であった。1930年からはフランス領インドシナからの珪砂の輸入が始まり、中でもカムラン湾の珪砂は、九味浦を上回る品質であった。一方、珪石の粉砕による珪砂の製造という点から着目したのが宇久須の珪石であった。 旭硝子による調査の結果、宇久須の珪石は不純物が少なく朝鮮産の珪砂を上回る品質であり、しかも埋蔵量も豊富であることが判明した。1936年末には海上輸送の運賃が高騰し、また次第に国際的な緊張が高まっていく情勢下ではカムラン湾からの珪砂が安定して確保できるかどうかが不透明になりつつあった。 しかし板ガラスの原料としてはこれまで珪砂が利用されており、珪石を細かく粉砕して板ガラスの原料とした例は無かった。そこで旭硝子試験場では宇久須産の珪石を使用して板ガラスを製造する試験を繰り返し、鶴見工場でも実用試験を行った上で利用可能との判断が下された。 また旭硝子は鉱区の所有権者らから権利の回収を進め、資源量の詳細調査を行っていた。1933年3月には国内産珪砂の供給体制の強化を目的とした旭硝子全額出費による新会社、東海工業が宇久須を本社として設立され、翌1934年6月には宇久須に珪石を粉砕する砕石工場が建設された。また宇久須には珪石搬出用として、50トンクラスの船舶が横付け可能な小桟橋が設けられた。1935年から本格的な珪石の採掘が開始され、旭硝子鶴見工場に板ガラス原料として供給されるようになった。 国際情勢が緊迫化する中でフランス領インドシナの情勢も悪化していき、1939年にはカムラン湾からの珪砂輸入はストップした。1941年、宇久須では19000トン近くの珪石を採掘した。しかし戦時体制が強化されていく中で後述の明礬石鉱床の開発が優先されたことと、戦況の悪化によって珪石の採掘量は激減する。
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