独裁と合理化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:27 UTC 版)
新商法の施行により、1952年に1人1票の議決権は1株1票に改められたが、従業員株主による直接投票で全ての取締役を選出する制度は継続した。だが、2年ごとに開催される取締役選挙では、長谷川の票は次第に伸び悩み、2位との差は縮まる一方であった。 この事態に不安を覚えた長谷川は、代表取締役候補のみを選出し、他の取締役候補は代表取締役候補が指名できるように定款を改正した。この制度は代表取締役に権限が集中することから、社内では「大統領制」と通称された。これに反対したある労働組合員は、社報で「いさぎよく社を辞めたほうがよい」と批判された挙げ句、呉支局に飛ばされた。組合は社に意見することをやめ、息を潜めるようになる。 長谷川に批判的な取締役は海外の支局に飛ばされ、役員定年の60歳を迎えるまで帰国を許されなかった。社内では密告が横行し、社員が少しでも社業に不満を漏らせば、直ちに執行部に伝わった。 長谷川は、未だ日本では定着していなかった「能率主義」の給与査定を導入したが、評価の基準が執行部の裁量に委ねられる面があった。また、宿直手当や寒冷地手当などの各種手当を廃止する「給与一本化」を実施したが、このときは職制らを使って賛成の署名を集めさせ、“自発的”な手当廃止という形を採った。 同盟外報部の勤務スタイルが染み付いていた長谷川は、「勤務時間は午前9時から午後5時までで充分」として、時間外手当も廃止した。手当てを求める記者たちに長谷川は「いまや第一報はテレビが伝え、新聞がそれを参考に記事をまとめる時代」だから、特種を追い求めるよりも効率的な業務を行うべきだと反論した。しかし、夜討ち朝駆けは不要と宣告された政治部や社会部の記者は、士気を落とした。 長谷川はまた、記者の大臣随行も不要と訓示した。交通費も支給されなかったため、記者らは恥を忍んで他社の記者に頭を下げ、相乗りを頼み込まねばならなかった。
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