独裁の崩壊と失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 06:28 UTC 版)
「ゲオルギオス・パパドプロス」の記事における「独裁の崩壊と失脚」の解説
1973年11月17日にアテネ工科大学で、独裁政権に反対する学生の蜂起に武力鎮圧を命じて死者80人以上を出したことで陸軍高級将校らの間にパパドプロスへの反感が生まれ、名目的とは言え民政に移行したことでクーデター当初の厳格な軍事独裁から逸脱したと将校らに疑念を持たれ、独裁政権の基盤が揺らいだ。直後の11月25日に腹心で秘密警察の長官だったディミトリス・イオニアデスがクーデターを起こし、パパドプロスは失脚して自邸に軟禁状態に置かれた。 クーデター後に成立したフェドン・キジキスの軍事政権も、翌1974年にキプロスのクーデターに介入したことを切っ掛けに海軍・空軍が離反して崩壊。その後の民主化の過程でパパドプロスら軍事政権の指導者は起訴され、パパドプロスも反逆罪で死刑を宣告された。その後終身刑に減刑され、恩赦も拒否しながら1999年ガンにより獄中で死去した。 民主化後のギリシャで彼は独裁の象徴と見なされている。多くのギリシャ人はパパドプロスを近代ギリシャ史における汚点だと考えているが、支持者たちは国家政治連合(EPEN)(英語版)を結成した。だが現在この政党は解散している。またパパドプロスにはCIAとのつながりがあったと言われ、事実冷戦期の米ソの対立の中でギリシャの軍事政権はアメリカの支援を受けていた。
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