演劇・文学活動へ
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たびたびの洋行以来、親しい市川團十郎や守田勘彌、中村宗十郎などと演劇論を語り、新しい演劇に取り組み、明治12年(1879年)にはリットン『マネイ(人間万事金世中)』などフランスやイギリスの戯曲や小説を翻案して、河竹黙阿弥や三遊亭圓朝に提供した。その後、演劇改良論を書き始め、明治19年(1886年)の演劇改良会の発起人に加わるなど、次第に演劇改良運動とそれを実践する劇場の開設に執念を燃やすようになる。明治20年(1887年)以後は歴史著作も執筆した。 明治21年(1888年)には官報発行などにより、政府寄りの東京日日新聞は経営不振となり日報社を退社。この年から小説も手を染め、政治小説、諷刺小説、ロマンス小説、歴史小説などを執筆。 明治22年(1889年)11月には千葉勝五郎とともに、東京の木挽町に歌舞伎座を開場した。福地はまもなく借金問題により経営から離れ、歌舞伎座の座付作者となって活歴物や新舞踊などの脚本を多数執筆し、市川團十郎らがこれを演じた。代表作には『大森彦七』『侠客春雨傘』『鏡獅子』『春日局』などがある。1891年歌舞伎座にかかった『舞扇恨之刃』は『トスカ』の翻案であり、桜痴ただひとつの翻案物である。 明治24年(1891年)から条野採菊の『やまと新聞』に小説を連載したのをきっかけに、社長の松下軍治に請われて顧問格となって評論活動を続ける。1897年4月、歌舞伎座の作者部屋で、桜痴と河竹派が不和になり、立作者3世河竹新七以下が退座し、桜痴が立作者になった。 明治36年(1903年)に團十郎が死去すると舞台から手を引き、政界返り咲きを企図して翌年の第9回衆議院議員総選挙に東京府東京市区から無所属で立候補して最下位当選を果たすが、この時には既にかつて福澤諭吉と並び称されたような社会的影響力は失われていた。明治39年(1906年)、議員在職中に死去、享年66。葬儀は増上寺で行われ、谷中霊園に葬られた。
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