演劇、歴史教育の推進
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「アラン・ドゥコー」の記事における「演劇、歴史教育の推進」の解説
1970年代以降、俳優・映画監督のロベール・オッセンからの依頼で、歴史劇や歴史映画の台本・映画の脚本を書いた。『ダントンとロベスピエール』、『私の名前はマリー・アントワネットだった』、『彼はボナパルトだった』、『ベン・ハー』など、いずれも壮大な演劇で、スタッド・ド・フランスで上演された。 1979年2月15日にアカデミー・フランセーズの会員に選出された。席次9、ジャン・ゲーノの後任である。佩剣には故郷フランドルの旗やフランドル伯の紋章に描かれるライオンが彫られ、かつて恩師サシャ・ギトリが指輪に使っていたエメラルドが象嵌されている。 歴史の大衆化に貢献したドゥコーは、歴史教育の推進においても重要な役割を果たした。1979年、ジスカール・デスタン政権下、第三次レイモン・バール内閣が初等教育の学習指導要領の改訂にあたってフランス史の授業を廃止すると発表すると、同年10月20日付の『フィガロ・マガジン(フランス語版)』に「フランス人よ、もうあなたがたの子どもたちは歴史を教えてもらえなくなる」と題する挑発的な記事を掲載し、さらに彼が編集委員を務めていた歴史雑誌『イストリア(フランス語版)』の第400号でも特集を組み、大論争を巻き起こした。彼は同誌で、クリスチャン・ブラク(フランス語版)国民教育相に対して、「(あなたにとっては)ワーテルローの戦いからアウステルリッツの戦いが生じたということになる」と激しく批判した。これを受けて、カトリック系の新聞『ラ・ヴィー(フランス語版)(生命)』も「フランスよ、お前の歴史がとんずらする」と表紙に大きく書いた号を刊行。他の新聞も同様であり、歴史・地理教員協会(Association des Professeurs d’Histoire et de Géographie)が反対運動を展開した。大論争の末、ようやくフランス史の授業が再開されることになり、ドゥコーはこれ以後も、2011年にもリセの最終学年における歴史の授業の廃止が審議されているときに、これに反対する歴史・地理教員協会の請願書に署名するなど、現場の歴史教員の活動を積極的に支持した。
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