清水一家の前後
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天保11年正月3日、現行のグレゴリオ暦によれば1840年2月5日、甲斐国八代郡二之宮村(現在の山梨県笛吹市御坂町二之宮)の百姓・角田久作の次男として生まれる。今川徳三は『壬申戸籍』(1872年編製、1968年閲覧禁止)に当たっており、この生年月日等の情報はその記載による。 「法印」とは「法印大和尚位」の略であり、864年に法眼・法橋の上位として定められたものだが、中世以降は医師や絵師、儒学者 ・仏師・連歌師の称号、あるいは勝手に僧号を称したり、ついには山伏や祈祷師を指すようにすでに意味が変化していた。今川によれば、法印大五郎は、大前田英五郎(1793年 - 1874年)、大前田一家の江戸屋虎五郎(1814年 - 1895年)、あるいは吉良の仁吉(1839年 - 1866年)同様に草相撲出身でもあるという。法印は、人並み外れた巨漢であった。法印は、寺子屋に学び、数え15歳の年である1854年(嘉永6年)には、甲府八日町(現在の甲府市中央2丁目)にあった魚市場の担ぎ人足になり、甲州街道に面した市場から、中道往還を経て沼津港、あるいは遠く新潟港までの間を往復し、鮮魚や塩乾魚を運搬する業務に従事した。 数え19歳、満18歳になる年である1858年(安政4年)には人足を辞めて、二之宮村の実家に戻り、家業の農業を手伝っていたが、間もなく八代郡竹居村(現在の笛吹市八代町竹居)の吃安こと竹居安五郎(1811年 - 1861年)の乾分になるのだが、女癖が悪く、竹居に坊主頭にされて放擲されたのだという。この坊主頭が「法印」の由来となり、体裁を繕うために「法印姿」つまり山伏の姿をしただけであって、実際に山伏であったわけではない。二代目広沢虎造の浪曲『清水次郎長伝 法印大五郎』に語られる「元は出羽羽黒の法印で平沢寛山、やくざになって甲州竹居安五郎の身内となり人呼んで法印の大五郎」と口上にあるように、出羽国の羽黒山(現在の山形県鶴岡市の羽黒山)の山伏であったわけではなく、「平沢寛山」と名のったのかどうかは不明である。笹川臨風は「法印大五郎は、山伏から身を持ちくづした男。次郎長が越前に赴いた時、同地で乾分にした。山伏姿で賭博場に出入したといふ亂暴者、生地は越前とも、又、出羽ともいふ」と記しているが、生地については前述の通りである。佃實夫も「甲州生まれで山伏出身。越前の旅先から次郎長がつれてきた」と記す。 法印が清水一家に加わった契機は、浪曲のように清水港に現れたのではなく、越前国(現在の福井県)で次郎長の配下になっているとされている。歴史作家・田口英爾の年譜によれば、次郎長が越前等を行脚したのは安政5年(1859年)であるといい、当時、法印は数え20歳、満19歳ということになる。今川徳三は、浪曲のように清水に流れ着いたとしており、人足時代に出会った沼津の知り合いを頼ったものであるとする。一方、浪曲では、安政2年4月の半ば(1855年5月末前後)に次郎長と対面しており、遠州周智郡領家村(現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家)の秋葉神社での「秋葉の火祭り」が同年10月23日(同年12月2日)に行われ、次郎長や増川仙右衛門(1836年 - 1892年)とともに同神社に向かうのは、同28日(同7日)とされている。法印はまだ満15歳のころに当たるが、浪曲では、4歳年長の増川よりも年長の人物であるかのように描かれている。史実では、その時期には、法印はまだ甲府で人足を務めている時期である。 浪曲『清水次郎長伝 血煙荒神山』、あるいは『東海遊侠伝』では、慶応2年4月8日(1866年5月22日)に伊勢国荒神山(現在の鈴鹿市高塚町観音寺)で勃発した「荒神山の喧嘩」で、吉良の仁吉とともに死んだとされているが、法印は生き延びている。このとき法印は満26歳であった。
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