浄土宗の開宗とは? わかりやすく解説

浄土宗の開宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 20:33 UTC 版)

法然」の記事における「浄土宗の開宗」の解説

承安5年1175年43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心体験し専修念仏奉ずる立場進んで新たな宗派浄土宗」を開こう考え比叡山下りて岡崎小山の地に降り立った。そこで法然念仏唱えるひと眠りした。すると夢の中で紫雲たなびき下半身がまるで仏のように金色に輝く善導表れ対面果たした二祖対面)。これにより、法然はますます浄土宗開宗意思強固にした。法然はこの地に草庵白河禅房現・金光明寺)を設けたが、まもなくして弟弟子である信空叔父円照がいる西山広谷に足を延ばした法然善導信奉者であった円照談義をし、この地にも草庵を設けた(現・光明寺南西の地)が、間もなくして東山にあった吉水草庵吉水中房)に移り住んで念仏教え広めこととした。この年浄土宗立教開宗の年とされる所以である。法然のもとには延暦寺官僧であった証空隆寛親鸞らが入門するなど次第勢力を拡げた。 養和元年1181年)、前年焼失した東大寺大勧進職推挙されるが辞退し俊乗房重源推挙した文治2年1186年)、以前法然宗論行ったことがある天台僧の顕真法然大原勝林院招請した。そこで法然浄土宗義について顕真明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜わたって聖浄二門の問答行った。これを「大原問答」と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土往生できることを知った聴衆たちは大変喜び三日三晩、断えることなく念仏唱え続けたなかでも重源翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然師事した建久元年1190年)、重源依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経講ずる建久9年1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実懇請受けて選択本願念仏集』を著した叙述に際して弟子たちの力も借りたという。 元久元年1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経にょほうきょう法要」を法皇ゆかりの寺院長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻法然上人行状絵図』(国宝)にその法要場面描かれている。 法然上人絵伝などでは、法然夢の中で善導出会い浄土宗開宗確信したとされる。これを「二祖対面」と称し浄土宗では重要な出来事であるとされている。

※この「浄土宗の開宗」の解説は、「法然」の解説の一部です。
「浄土宗の開宗」を含む「法然」の記事については、「法然」の概要を参照ください。


浄土宗の開宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:39 UTC 版)

院政期文化」の記事における「浄土宗の開宗」の解説

それまで加持祈祷学問中心仏教から、内面的な深まり持ちながら、庶民など広い階層対象とする新し仏教への変化胎動ていった。 はじめ天台宗教学学んだ法然は、承安5年1175年)、もっぱら阿弥陀仏誓い信じ南無阿弥陀仏」と念仏唱えれば死後平等に往生できるという専修念仏教え説き、のちに浄土宗開祖あおがれ鎌倉新仏教嚆矢とされた。 法然教え摂関家九条兼実中央の貴族をはじめ、地方武士庶民にまで広まった。その弟子は、浄土真宗開いた親鸞はじめ、きわめて多きわたっている。また、女性初め布教おこなったのも法然であった

※この「浄土宗の開宗」の解説は、「院政期文化」の解説の一部です。
「浄土宗の開宗」を含む「院政期文化」の記事については、「院政期文化」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「浄土宗の開宗」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「浄土宗の開宗」の関連用語

浄土宗の開宗のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



浄土宗の開宗のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの法然 (改訂履歴)、院政期文化 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS