洋裁店から競馬界に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 23:12 UTC 版)
「マット・ウィン」の記事における「洋裁店から競馬界に」の解説
マット・ウィンは1861年6月30日にケンタッキー州ルイビルで生まれた人物である。1875年、13歳の時に野菜を売る父親の馬車に連れられ、チャーチルダウンズの内馬場に停めた馬車の上から第1回のケンタッキーダービーを見た日以来、この競走の愛好家であったという。ウィンは14歳の時に聖ザビエル高校を中退し、定時制の実業学校に入学、そこに数か月通いながらガラス会社の簿記係助手を勤め、その後野菜取引業、パックツアー販売員などを経て、1902年当時には地元ルイビルで洋裁店を営んでいた。 ウィンが洋裁店を営んでいた頃の1902年、顧客の1人であるウィリアム・E・アップルゲート(英語版)から「私は街中で買い手を探してきたが誰も欲しがらない。君が最後の頼みの綱なんだ。もし君が断れば、ダービーは死ぬ」と、チャーチルダウンズ競馬場を買い取ってほしいと頼まれた。ウィンはこの時点で競馬運営の経験は全くなく、競馬へのかかわりも101倍の万馬券を2回当てたという程度であった。しかしウィンはこの依頼を受けて立ち、ルイビルの市民に出資を求めて回り、4万ドルをかき集めて競馬場の買収を手伝った。そして当時ルイビルの市長であったチャールズ・F・グレインジャーを社長に、自身は副社長となって新体制を作り上げていった。1904年にはゼネラルマネージャーにも就任している。この時点ではウィンは組織のトップではなかったが、後のチャーチルダウンズ広報部長であるジョージ・リーチが『ブラッド・ホース』誌において「ウィンがボスだった。ここに来たその日から、彼が物事を決めていた」と語っている通り、実質的な支配人はウィンが務めていた。 ウィンの人柄については、前述のリーチは「私が彼と親しくなったとき、あの人はもう80代で、当然丸くなっていたが、それでもおそろしく素敵で素晴らしい老人で、しかも非常に鋭かった。そしてなにより、どこから見ても鉄よりタフだった。私がウィンを最も尊敬するのは、下で働く者に対して、強い忠誠心を持っていたことだ」と語っている。同じくチャーチルダウンズで勤めていたスタンレー・ヒューゲンバーグは「彼は蛇口をひねるように(即座に)笑顔を作ることができた。色々な人、それも世界中の人とコネをつけられた。私も頭のいい人や金持ちの人と会ってきたが、ウィン大佐以外にダービーをあんなふうにできる人はいないと信じている」と語っている。ある友人はウィンのことをその上品な容姿を「唯一なるアイルランド人外交官だ」と評していたという。 ウィンはメディアの影響力を熟知しており、記者をあつくもてなした。特にニューヨークのメディアの影響力を重視したウィンは「他に何もいらないから、ニューヨークで最高の記者5人を僕の味方にしてください」と語ったこともあった。『クーリエ・ジャーナル』誌の記者ビリー・リードは「記者たちはウィンに恋をし、彼の生きた言葉を引用し、そしてタダ酒に酔った。彼が人に勘定書を取らせることはなかったが、特に記者はそうだった」と書いていた。『デイリー・レーシング・フォーム』の記者オスカー・オーティスはウィンについて「ウィンは報道する者の真の友達であり、状況の良し悪しに拘わらず、ダービーは競馬の世界で唯一絶対に重要なものだと信じさせる力を持っていた。そしてそれは伝染していったのである」と回顧し、また「ウィンはいつも自分のほうから有益なよう計らってくれた。新聞記者が好きで、ウィットに富み、記者を王様のように扱い、深く取材しようとすれば裏側まで見せてくれた。そのうえ上品で、人格に優れ、俗物的な部分は毛ほどもなかった。競馬においても誰でも平等と信じ、その通りに行動した」と付け加えている。ウィンがニューヨークのウォルドーフホテルに滞在すると、「ウィンはよい記事になる」とその宿に新聞記者が集まってきて、その中にはグラントランド・ライスやデイモン・ラニョンといった当時の有名な記者もいたという。マスコミに同調者が多かったことは、スキャンダルのもみ消しにも功を奏しており、例えば後述する1911年のダービーでは裏で八百長疑惑が起きていたが、ウィンはそれが大事にならないよう封じることに成功している。
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