法廷での戦い
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1967年11月27日、ケレハーはダラス、ヒューストン、サンアントニオの3都市を結ぶ航空会社の参入をテキサス州航空委員会(以下「TAC」と表記)に申請、1968年2月20日には認可された。ところが、認可の翌日に、ブラニフ航空、トランステキサス航空・コンチネンタル航空の3社(以下、本節では「ライバル3社」と記述する)が、サウスウエスト航空への飛行許可証を発行することを禁じる内容の一方的緊急差止命令を入手したのである。ライバル3社の主張は「サウスウエスト航空が参入しようとしている市場はすでに飽和状態で、新たな航空会社が参入する余地はない」というものであった。 1968年夏に、テキサス州地方裁判所にこの案件が持ち込まれたことにより、両社は法廷で争うことになり、サウスウエスト航空の弁護士はケレハーが担当した。この間にライバル3社は裏側で政治的な根回しを行っており、一度は認可を出したはずのTAC関係者が、審理が始まる前の新聞のインタビューで「テキサス州に新しい航空会社が必要な理由が分からない」という談話までしていた など、サウスウエスト航空には不利な状況であった。裁判では両社の弁護士が感情むき出しで主張をする激しいもので、テキサス州のある新聞は「娯楽費を節約して裁判を見るほうが面白い」と評するほどであった。地方裁判所ではライバル3社の主張を認める判決が下され、サウスウエスト航空ではテキサス州高等裁判所へ控訴した が、7か月の審理の後に敗訴してしまった。この時点で、事業に必要となるはずの資本金がすべて裁判費用に消えてしまっていた ため、役員の中にはここで手を引くことを考えていたものもいたという。しかし、ケレハーは裁判費用を自己負担することで役員たちを説き伏せ、テキサス州最高裁判所へ上告、その結果、高等裁判所での判決は覆され、サウスウエスト航空の勝訴となった。ライバル3社は合衆国最高裁判所へ上告したが棄却され、ようやく就航が認可されたのである。 しかし、せっかく認可されたものの、運航開始するための費用はすべて訴訟に費やしてしまっていた。また、運航に必要な人員を集めなければいけなかった。1971年1月、サウスウエスト航空は、ユニバーサル航空を退社したばかりのラマー・ミューズをCEOに招聘した。ミューズは就任後直ちに友人や知人のつてをたどって、資金集めに奔走する 一方、友人や知人で運航に携わった経験者を集めた。また、資金集めの後に、過剰生産したため売れ残っていたボーイング737型機を3機購入した。 運航開始に先立ち、客室乗務員の募集が行われたが、その時の広告文面は「ラクエル・ウェルチさん募集」というもので、面接時には「脚を見せるために」という理由でホットパンツをはいてくるように要求した。選考にあたっては、ヒュー・ヘフナーの「PLAYBOY JET」に乗務するバニーホステスを育てた人物も、審査員に加わった。こうして採用された女性客室乗務員は、80パーセント以上がバトンガールやチアリーダーの経験者で、かつ強い個性を持つ社交的な女性ばかりであった。サウスウエスト航空では、これらの客室乗務員にホットパンツとゴーゴー・ブーツを制服として支給した。 一方、ライバルの航空会社の妨害はまだ続いていた。テキサスインターナショナル航空とブラニフ航空(以下、本節では「ライバル2社」と記述する)は米国民間航空委員会 (Civil Aeronautics Board, 以下「CAB」と表記)に対してサウスウエスト航空の就航に抗議を申し立てる 一方、ブラニフ航空はサウスウエスト航空の株式引受業者に手を引くように圧力をかけていた。しかし、CABはライバル2社の申し出を却下し、サウスウエスト航空は別の株式引受業者を見つけ出した。1971年6月8日には、ようやく最初の株式公募にこぎつけた が、一方でライバル2社は業務開始を阻止するための一方的緊急差止命令を入手した。これに対して、ケレハーは職務執行令状の発布を求めるため、すぐに司法図書館で先例を調べた上、テキサス州最高裁判所に対して緊急差止命令の却下を申し出た。1971年6月17日、テキサス州最高裁判所はサウスウエスト航空の主張を認め、差止命令を執行しないように命じた。この時点で、ようやくサウスウエスト航空は運航が可能となったのである。
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