沖縄闘争から冬の時代へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 04:37 UTC 版)
「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「沖縄闘争から冬の時代へ」の解説
三派全学連にとって、全共闘運動の予想外の高揚は政治闘争への障害物でもあった。これは、学園闘争が必ずしも安保やベトナムの問題に直結するものではなく、運動を担う無党派大衆は党派の制動にかならずしも従わない性格をもっていたからであった。68年の10月21日の国際反戦デー闘争(新宿騒乱)を享けて闘われた11月7日の沖縄闘争は東大闘争のピークに押され、反戦・反安保・沖縄の闘争は影をひそめるようになった。このころから、全国全共闘を批判して結成された赤軍派、あるいは中核派やML派による武装闘争が激化していった。佐藤首相訪米阻止闘争では2万人が結集し、羽田周辺でのゲリラ戦が闘われた。ベ平連、反戦青年委員会、全国全共闘の連日のデモも甲斐なく、6月23日に安保条約は自動延長を迎えた。 自治会運動の形をとった学生による大衆運動は三派全学連でピークを迎え、全学連運動へと発展していったが、全国全共闘の結成を境に党派連合政治の舞台へと姿を変えた。そしてその全国全共闘も山本義隆議長の辞任によって解体し、学生運動はその全体性を完全に見失うに至った。そうした中で、革マル派対中核派・青解派の内ゲバや連合赤軍による山岳ベース事件が発生し、これはマスコミによる批判の的となった。1965年ごろから革マル派・中核派・革労協の三全学連という系統が明確化し、それと同時にこの三派間での内ゲバが激化していた。内ゲバへの批判キャンペーンは武装闘争への批判よりも甚大で、各党派・全学連から後続世代の学生が遠ざかるに至った。内ゲバによって学生運動は一時的に壊滅したともいわれる。70年代以降は、「学生運動冬の時代」ともいうべき時代となった。そのような中でも、日共全学連は人員・組織数を維持していた。1968年には徴収された自治会費は総額で日共系1億8千万円、三派1億円、革マル派2500万円と伝えられており、このころに全学連中枢の学生による自治会費の個人的流用が問題となっていた。この莫大な自治会費の存在から自治会掌握は各セクトにとっては死活の問題であり、不正選挙がたびたび発生したという。 1970年7月7日の華僑青年闘争委員会によるいわゆる華青闘告発をきっかけに、部落解放運動、障碍者解放運動、女性解放運動、寄せ場の運動、地域住民闘争や反原発闘争など、中央権力闘争を補てんするような具体的な戦いが推進されるようになった。この告発は、直接的には「盧溝橋事件33周年大会」の準備過程で中核派の全国全共闘書記局員が差別発言を行ったことの告発であったが、国際主義を掲げる革命的左翼の内実の不十分さを浮き彫りにしたものであった。 1972年11月8日、早稲田大学学生の川口大三郎の遺体が東大病院前で発見された。川口は中核派シンパとみなされ革マル派によって殺害されたとされる。川口をリンチしていたところ様子が急変し、応急処置をしたが死亡させてしまったというのがいきさつであり、中核派によれば中核派の威力に恐れた革マル派が中核派の「全学連戦士」であった川口を虐殺したのだという。革マル派全学連は事実関係を公表し謝罪することとなった。 詳細は「川口大三郎事件」を参照
※この「沖縄闘争から冬の時代へ」の解説は、「全日本学生自治会総連合の歴史」の解説の一部です。
「沖縄闘争から冬の時代へ」を含む「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事については、「全日本学生自治会総連合の歴史」の概要を参照ください。
- 沖縄闘争から冬の時代へのページへのリンク