沖縄陳列館とは? わかりやすく解説

沖縄陳列館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 04:52 UTC 版)

東恩納博物館」の記事における「沖縄陳列館」の解説

沖縄戦失われた文化財 1936年首里城北殿改修し沖縄県教育会によって沖縄県教育会附設郷土博物館設置され資料収集展示をおこなう沖縄博物館誕生した首里城地下沖縄守備軍第32軍の司令本部かまえた日本軍は、首里城多く歴史的文物宝物保護し移転することをしなかった。1944年10月10日十・十空襲後、博物館所蔵物本土疎開陳情する許されず、やむなく首里城内の洞穴避難させたが、終戦後確認したところ、何も残されていなかった。沖縄多く文物資料は、焼失散逸、あるいは戦利品として海外流出した1945年8月30日、沖縄陳列館 (Okinawa Exhibition Hall) は、当初米軍人・軍属沖縄文化理解を深めることを目的として、米国海軍軍政府のジェームス・ワトキンス政治部長 (James T. Watkins) と海軍軍政府教育担当官のウィラード・ハンナ教育部長 (Willard A. Hannah) らによって設立された。米国軍政府のコンセットが立ちならぶ石川市東恩納一画瓦葺き民家にもう一軒増築し陳列館となし、一画を粟石で囲い、庭には庭園作られた。また、ハンナ少尉沖縄戦生きのびた画家たちを「美術技官」として登用し東恩納美術村の発展貢献した。 沖縄陳列館の設置された場所は、民間人のいる石川収容所ではなく多く将校米兵往来する米国民政府のコンセットが立ち並ぶ石川東恩納であったことからも、この展示当初の目的は、米軍政府将校兵士沖縄訪れ米国議員らに示し沖縄文化と歴史への理解深め尊重することを当初の目的一つとしていたことがうかがわれる。ウィラード・ハンナは、略奪破壊行為横行している現状を「恥ずべき行為」とみなし、自ら焼け残った家屋学校や壕や墓などをまわり、文物集めさせ保存し陳列館を通して重要な沖縄文化財占領軍盗まれることを防止し沖縄文化財重要性につい て)米軍兵士教育」することに尽力した首里城焼け跡から回収された「万国津梁の鐘」は、博物館象徴として門の前に展示された。

※この「沖縄陳列館」の解説は、「東恩納博物館」の解説の一部です。
「沖縄陳列館」を含む「東恩納博物館」の記事については、「東恩納博物館」の概要を参照ください。

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