沖縄県知事からの転出について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:27 UTC 版)
「泉守紀」の記事における「沖縄県知事からの転出について」の解説
泉は、1944年以降、親族や知人の官僚に働きかけて、沖縄県知事からの転出工作を進めていた。そして、最終的に、1945年1月に香川県知事への転任という形で希望が実現している。転出時期が沖縄への連合軍上陸のわずか2ヵ月半前であったことから、地上戦必至の沖縄から命惜しさに逃亡した卑怯な人物という評価が、1950年初版の沖縄タイムス社(編)『鉄の暴風』などにより定説となっている。なお、実際の転任以前にも、1944年8月の本土出張の際などに、そのまま転出して沖縄には帰らないのではないかといった風評が、部下の県職員らの間で噂されていた。当時、知事以外の県の高級職員でも、本土出張にかこつけたり、無断で疎開船に乗船するなどして沖縄を脱出した者が出て問題になっており、懲戒処分になった例もある。 こうした泉の転任が本人の工作の「成果」であるという定説に対しては、以下のような異論もある。 野里洋は、転出工作は事実だが、泉なりに県民の生活や生命を守る職責には取り組んでおり、転任実現も本人の希望が容れられたというより、軍との協力円滑化のための措置であったとの仮説を、著書の『汚名』で提示している。野里は、古井喜実(内務次官)ら元内務省関係者などからの聞き取りを行い、「逃亡行為は懲戒免職に値する行為で、他県の知事に任命されるようなことはありえない」旨の証言を得ている。そして、泉と第三十二軍司令部の不仲は内務省や大本営でも把握されており、本土決戦に向けた体制作りの観点から、軍に協力的な知事との交代が図られた可能性が高いとする。野里は、対立継続の場合には軍が戒厳令を発するおそれがあり、内務省にとっては行政権を確保し続けるためという省益に関わる面もあったと指摘する。転任のタイミングが沖縄戦直前だったことについては、野里の調査によると、すでに知事更迭の方針は早くから内定していたものの、後任が決まらずにずれ込んでいただけであるという。
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