沖縄県民救済事業と漁業団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 10:31 UTC 版)
「照屋敏子」の記事における「沖縄県民救済事業と漁業団」の解説
福岡県知事野田俊作は那覇市長富山徳潤を介して、引揚者の援護事業を起こしてほしいと照屋家に要請してきた。沖縄県の水産王であった照屋家が博多にいることを知ってである。1946年2月福岡県の要請で、県内の主要施設を見学した。敏子は復員者の援護事業と漁業団結成に奔走しはじめた。夫婦は別々の漁業団を立ち上げたが主導権は敏子が握っていた。敏子の立ち上げた漁業団は沖縄に帰れぬ漁夫三百余名からなる、漁船12隻を持つ、「沖ノ島漁業団」であった。実際は長崎県の女島男島方面で操業した。1947年、敏子の功績により当時物価統制令で低かった沖縄県県魚のグルクンの定価改定を勝ち取った。敏子は女親分と称されたが、博多時代の事件として、あらくれ男が団交をした席で、啖呵を切って付きつけられた短刀で指をきって、血を流したとある。小指の深い傷をつけたが、あらくれは従ったという。鱶のいる海で割りばしをくわえて潜ったというエピソードもある。敏子が得意とする沖縄漁法が1948年以降禁止され、危機に陥った。1953年、沖ノ島漁業団は解散した。
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