沖縄県立北城ろう学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/19 08:12 UTC 版)
「沖縄県立沖縄ろう学校」の記事における「沖縄県立北城ろう学校」の解説
1964年の風疹の流行により、1965年の沖縄県内(当時は米軍統治下のため「沖縄県」ではなかったが、ここでは分かりやすくするため「沖縄県」を用いる。以下同じ)では風疹障害児が多く生まれた。そのため、1969年には沖縄県内各地に風疹難聴学級が設置された幼稚部学級が開設された。その後、小学校においては通常の生徒と同様に学校へ入学し、新設された風疹難聴学級で教育を受けた。しかし、聴能訓練に大半が費やされたため、通常の学校教育で要求される学力を身につけることができなかった。 そこで、沖縄県は当時の風疹障害児のためだけの独立した学校を新設することを計画。1978年に本校である沖縄県立北城ろう学校、分校である宮古分校、八重山分校を設立。単一学科、単一学年生で本校には全140人の生徒が入学、19学級が開設された。1981年には普通科と職業科によって構成される高等部が新設された。 1984年3月に全生徒が卒業し当校は役目を終え、本校、分校ともに6年間の短い歴史に幕を閉じた。なお、閉校の約半年後に跡地には沖縄県立沖縄ろう学校が移転してきている。 本校に関しては高等部新設とともに野球部が結成され、1983年には夏の高校野球の沖縄県大会に正式出場。当校をモデルとした映画「遥かなる甲子園」が制作された(詳細については遥かなる甲子園を参照)。
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