沖縄県立盲聾唖学校の設立と消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/03 13:10 UTC 版)
「沖縄県立盲聾唖学校」の記事における「沖縄県立盲聾唖学校の設立と消滅」の解説
私立で運営されていた盲・聾唖学校の県立移管の陳情は長く続けられていたが、1943年にようやく実現して「沖縄県立盲聾唖学校」が誕生する。校長には高橋が就き、生徒は25名であった。校舎はそのままであった。 ところが、1944年(昭和19年)には沖縄が臨戦態勢下に入り、学校でも防空壕掘りや避難訓練が行われるようになった。初等部の生徒は家に戻り、校舎も海軍が使用した。1945年2月11日、最後となる卒業式を行った後、生徒の安全を案じた高橋は宮崎に渡って疎開の準備を進めるが、疎開は実現しなかった。同年4月の米軍上陸で那覇も戦場と化し、校舎は焼失、事実上学校は消滅した。戦後の沖縄における障害者教育の復活は、1951年(昭和26年)の「沖縄盲聾唖学校」設立まで待つことになる。
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