沖縄社会党(第一次)結成
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「大宜味朝徳」の記事における「沖縄社会党(第一次)結成」の解説
同年9月10日、美里村で沖縄社会党(第一次)を結成し、10月20日には兼島信栄の琉球社会党と合流して、社会党となる。大宜味率いる社会党は沖縄民主同盟や沖縄人民党とともに知事・議会議員の公選を訴え、また、アメリカの信託統治の下での琉球独立を模索した。山城善光によれば、1949年5月1日以後、社会党・民主同盟・人民党の3党からなる「民族戦線演舌会」が開催されると、那覇市を皮切りに、糸満、石川、名護、本部、今帰仁、大宜味で盛況を収めたという。また、同年12月26日には、三党連絡協議会も開催された。しかし、社会党はこの流れから去ることになる。同年12月30日には民主同盟・人民党の2党代表がジョセフ・R・シーツ軍政長官と会談しているが、社会党は参加していない。社会党は大宜味のワンマン体制であったため大衆から理解が得られず、1952年3月2日の第1回立法院議員総選挙で敗北し、同年4月7日解散した。 なお、沖縄社会党(第一次)は沖縄社会大衆党から分派した沖縄社会党(第二次)と関係はない。
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