武藏七黨とは? わかりやすく解説

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むさし‐しちとう〔‐シチタウ〕【武蔵七党】

読み方:むさししちとう

平安末期から室町初期にかけて武蔵国存在した同族武士団丹治(たんじ)・私市(きさい)・児玉猪股(いのまた)・西・横山・村山の七氏。


武蔵七党

読み方:ムサシシチトウ(musashishichitou)

平安後期から南北朝時代武蔵国本拠をおいた7つ同族武士団総称


武蔵七党

作者山根智暁

収載図書山寺残照
出版社近代文芸社
刊行年月1996.9


武蔵七党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 05:52 UTC 版)

武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野上野相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。


  1. ^ 柴田孝夫 1975, p. 223.
  2. ^ 柴田孝夫 1975, p. 205-206.
  3. ^ 柴田孝夫 1975, p. 242.
  4. ^ 『多摩市史』通史編1 第四編 第六章 第三節
  5. ^ 新日本古典籍総合データベース 古今著聞集
  6. ^ 昭島市史編さん委員会『昭島市史』(昭島市、1988年)


「武蔵七党」の続きの解説一覧

武蔵七党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 04:31 UTC 版)

上田氏」の記事における「武蔵七党」の解説

武蔵七党の西党系統で、扇谷上杉氏家臣家系松陰私語に戦巧者として「道灌父子(父:太田道真)、上田三戸荻野谷」の名が見える。 上田氏嫡流権現山合戦時に上杉方から北条方に寝返った上田政盛など。 庶流武州松山城主の系統代々上野介名乗っている。「鎌倉大草紙」に上杉禅秀の乱六本松合戦で禅秀方で討ち死にした上田上野介の名が見え時代下って上田朝直息子の上田長則・上田憲定など。

※この「武蔵七党」の解説は、「上田氏」の解説の一部です。
「武蔵七党」を含む「上田氏」の記事については、「上田氏」の概要を参照ください。

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