正平の一統による返り咲きとは? わかりやすく解説

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正平の一統による返り咲き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「正平の一統による返り咲き」の解説

正平5年/観応元年1350年)、室町幕府では観応の擾乱呼ばれる内紛発生した将軍足利尊氏執事である高師直尊氏の弟である足利直義の間に対立関係発生し師直尊氏派と直義派の武力衝突発展したのである戦局二転三転したが、正平6年/観応2年1351年10月将軍尊氏嫡子義詮南朝帰順したため、北朝解体され後村上天皇による統一王朝成立し元号正平一つのみとなった。これを正平一統という。 尊氏降伏翌月である正平6年/観応2年1351年11月文観真言宗頂点である正法務東寺一長者再任された(『東寺長者補任』巻第4および『東寺百合文書』「正平七年真言院後七日御修法請僧等事」)。時に数え74歳であり、建武政権下で正法務東寺一長者醍醐寺座主として仏教界に君臨した全盛期から16年経過していた。 また、このころ慶派仏師の名彫刻家である康俊東寺大仏師補任されており、文観との関わりがあったと見られている。なお、同じく文観繋がりが深いために紛らわしいが、この康俊は、鎌倉時代末期文観発願により般若寺本尊文殊像(重要文化財)を製作した興福寺大仏師康俊とは同名別人考えられている。 翌年正平7年1352年1月には、法務東寺一長者として、東寺大法である後七日御修法執行した。去る16年前建武3年1336年1月のときは、後醍醐天皇足利尊氏との戦いである建武の乱兵禍により後七日御修法中断されたため、これが文観にとって初め後七日御修法完遂し体験だった。一方、『東寺長者補任』巻第4は、「可謂老後本懐哉」(老後本懐遂げたというようなものか)と文観のことをやや揶揄気味に書いている。実際文観の下で後七日御修法行った十数人の僧侶のうち、文観付法受けていたものは忠禅小都の1人のみであり、京に復帰したばかりの文観派の勢力基盤弱かったようである。 同じく正平7年1352年)の5月盛り返した幕府軍によって八幡の戦い後村上天皇らが敗退して賀名生戻ったため、文観再度栄華半年程度短期間終わった。このとき、南朝北朝光厳上皇光明上皇・崇光上皇および廃太子直仁親王京都から拉致して賀名生幽閉するという強硬手段出た。そのため、北朝では院不在のまま光厳第二皇子弥仁王を後光厳天皇として践祚させるという、やむを得ない手段を使う必要に迫られた。

※この「正平の一統による返り咲き」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「正平の一統による返り咲き」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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