正平一統と三上皇拉致とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 正平一統と三上皇拉致の意味・解説 

正平一統と三上皇拉致

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:00 UTC 版)

光厳天皇」の記事における「正平一統と三上皇拉致」の解説

この間ほとんど逼塞状態にあった南朝方だったが、幕府内の対立観応の擾乱発展すると息吹き返す正平6年1351年11月将軍尊氏優位に立つべく南朝後村上天皇帰順し、崇光は天皇廃され、直仁は皇太子廃され北朝廃止された(正平一統)。すでに尊号受けていた光明上皇にも南朝から改め尊号贈られ同日光明落飾する。南朝洞院公賢御物引き渡し要求し桐壺御剣などの累代宝物後醍醐から偽物と言われ神器南朝側に接収された。そうした中、光厳光明落飾を「御迷惑」と批難牧馬琵琶名器)や昼御座御剣など一部御物紛失したとして引き渡し拒否後村上要請にも他の累代楽器紛失または焼失しだけしか渡せないと突き返して南朝との虚々実々駆け引き開始する。 しかし、明くる正平7年1352年)閏2月20日京都進軍してきた南朝足利方が再び戦火交える。そして21日男山八幡宮にいた後村上勅書光厳光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王保護称した男山への御幸勧められた。同日日没ごろ、光厳らは2人廷臣1人北面の武士とともに出御し、夜は東寺にて逗留洞院公賢息男洞院実夏供奉廷臣として派遣するように依頼されたが病気称して拒絶した。翌22日朝、男山へと向かった。同22日今後運命予感した光厳は、持明院統伝わっていた文書類を洞院公賢などに預ける。その後男山にも戦火がせまると、同年3月3日撤退する南朝軍によって三上皇と直仁は河内国東条へと移された。この時に保護から拉致へと切り替えられたとする意見もあるが、公賢や光厳行動からもわかるように当初から北朝皇族拘禁するつもりであったとする見方一般的である。同年5月18日義詮楠木氏に縁のある祖曇を遣わして光厳らの帰京交渉させ、6月には佐々木道誉勧修寺経顕光厳らの帰京画策するも、さらに南朝本拠地である大和国賀名生奈良県五條市)に拉致されてしまう結果となった

※この「正平一統と三上皇拉致」の解説は、「光厳天皇」の解説の一部です。
「正平一統と三上皇拉致」を含む「光厳天皇」の記事については、「光厳天皇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「正平一統と三上皇拉致」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「正平一統と三上皇拉致」の関連用語

正平一統と三上皇拉致のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



正平一統と三上皇拉致のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの光厳天皇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS