模合の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 14:19 UTC 版)
古くは琉球王国の尚敬王(在位:1713年 - 1751年)の時代、1733年の『球陽』でその記述が見られるが、これは備荒貯蓄のことであり、貧窮者救済の意味があったとされる。無尽講を意味する模合の発祥は詳しくはわかっていないが、18世紀以前から行われていたようである。模合は労働力の提供・共同生産、農産物など食料品などを対象とするものであったが、貨幣経済の発達に伴って金銭の拠出による無尽講の形態へと変遷していった。 日本本土では1915年に無尽業法で取り締まりが開始されたが、沖縄の模合は構造上この法律で取り締まれないものも多く、1917年に沖縄県が別途「模合取締規則」を公布して監視に当たった。この取締令は、1930年代まで続いていたと見られる。 明治時代には各地に銀行が設立されるようになるが、一般庶民には遠い存在であったほか、当時の庶民に馴染みのあった高利貸しは年利にして安くとも24%、さらに30%、40%とは当たり前であったといった背景もあり、庶民向けの金融制度としての地位を確立したとみられる。中には営業化して無尽会社に成長するものもあった。 戦後は金融機関の復興が遅れたために模合が再流行したとも言われ、1971年には県内で1千万ドル(当時のレートでは36億円)以上の規模で行われていたとみられている。 『沖縄文化史事典』(1972年)では、「新規事業、建築、土地購入、進学、旅行等あらうる資金調達の手段」として利用されているとされている。 なお、海外移民を行った沖縄人は移民先で融資を受けることが難しく、家族の呼び寄せ、起業資金などにこの模合を利用した。文献によれば、2008年現在もこの風習は続いているようである。 2020年に世界的に新型コロナウイルス感染症が流行した際には、狭いところに人が集まると感染リスクが高まるという理由から、当時の玉城デニー知事が模合を控えるよう要請した。 また、韓国でも同様の自然発生的な相互扶助システムである「契」が現在に至っても盛んである。沖縄国際大学の波平勇夫は、日本本土では廃れているこのシステムが21世紀に至っても韓国および沖縄で未だに見られることは、隣国であると同時に似た社会基盤を持つためがゆえかもしれないと考察しているが、この日本においても完全には消滅していない。山梨県の飲食店では無尽用に貸し出すサービスも存在しており、相互互助システムは一種の余興としても形態を変えた制度として土着してる事が見られる。
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