概念(存在)における「一」と「無限」とその「狭間」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 04:24 UTC 版)
「ピレボス」の記事における「概念(存在)における「一」と「無限」とその「狭間」」の解説
ソクラテスは、自分の言う「善」とプロタルコスの言う「善」の相違点を吟味し、「究極の善」が何であるか(「快楽」なのか、「思慮」なのか、それ以外の何かなのか)を探求していく前提として、まずは概念にまつわる「一」と「多」の話を持ち出す。 それはある同一人が相対的に「大」でも「小」でも、「軽」でも「重」でもあり得るので、「一」でもあり「多」でもあるだとか、様々な事物を言論上で部分に分割したり1つに集合させたりしながら、「一」なるものが「多」であったり「無限多」なものが「一」であるという奇妙なことを、相手が言わざるを得なくして嘲笑するといったような、通俗化した詭弁・子供だましの類の話ではなく、あくまでも生成消滅しない単一・同一な「真実存在」を仮定した場合に、それが生成する無限の事物の中に分散するとか、それ自体が別離するなどして、「同じ一つのものが、同時に一つのものの内にも、多くのものの内にも生じる」といったことが、いかにしてあるのか、という話であるとソクラテスは述べる。そしてこうした問題は、うまく同意まで到達しないと「行き詰まり」の元となるが、同意まで到達できれば万事うまくいくようになると述べる。プロタルコス、ピレボスも同意する。 ソクラテスは、こうした「一」と「多」にまつわる話は、言論についてまわる宿業のようなもので、それを覚えたての者、特に若者は、それを「知恵の宝庫」でも発見したかのように喜び、夢中になり、それを以てあらゆる言論を動かし、まるめたりこね合わせたり細分したりしながら、自分や関係者を困惑に陥れることになると指摘しつつ、そうした騒乱を避け、まともな言論に至るための(古来言い伝えられて来たとされる)「良い方法」について述べる。 それは、あらゆる「有る」と言われているもの(存在者・存在物)は、「一」と「多」からできており、またその「多」は「有限」と「無限」を併せ持っているので、あらゆるものについて、「一」と「無限(の多)」だけではなく、(その狭間の、二なり三なりその他の数なりでそれを構成する)「一定数(有限)の多」についても併せて考察・学習・把握し、教え合うことであり、そしてそのように「一」と「無限」の両極端に走らず、その狭間の「中間の数」を扱えるかどうかが、問答法と他の論争的な術を区別する目安ともなるとソクラテスは述べる。 何が言いたいのか問うプロタルコスに対して、ソクラテスは続いて「声音」の例を出す。「声音」は、口から出てくるものとしては「一つ」だが、個々の音としては「無限に多い」とも言える。しかし、これら「一」と「無限」を知っているだけでは、我々は「声音」を知っている者ということにはならず、「声音」にはどういう性質のものがどれだけの数あるかを把握することで、「文字」や「音程・音階・音楽」を解する者となれる。このように「一」と「無限」の狭間にある「一定数の多」を把握できてはじめて、そのことに関して「ひとかどの識者」「思慮のきく人」となれるのだと、ソクラテスは指摘する。 それが今自分達と何の関係があるのかと問うピレボスに対して、ソクラテスは今度は、先人達が「無限」にある「音声」を、「有声音(母音)」「半有声音(半母音 - 摩擦音・流音など)」「無声音(黙音 - 破裂音など)」の三種類に分け、その各々の数を確かめて「字母」を与え、それらを「一つ」にまとめて「読み書きの術」とした例を提示するが、ピレボスは相変わらず、それが自分達と何の関係があるのか問う。 そこでソクラテスはようやく、これらの話を踏まえるならば、現在の議論における「快楽」と「思慮・知性」を巡る議論においても、その各々の中にある「一定数の多」を把握することが求められていることになると、その真意を明かす。 そこでプロタルコスが、この「快楽」と「思慮・知性」を巡る議論は、そもそもソクラテスが始めたものなのだから、その「一定数の多」の把握に向けた種類分け作業をソクラテスが引き受けるか、それとも別の手段を見出すかしてもらいたいと頼む。
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