楽器との関わり
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小さい頃、父から無理やりピアノを習わされた(教会で賛美歌のオルガン奏者をみつけるのに苦労し、自分たちの子どもにそれをやってほしいという思いから、姉も弟も習わされていた)が苦痛で、小学校二年から始めて三年間でバイエル四十番までしかいかず、教える先生もさじを投げるほどだった。 ギターを始めたのは、高石ともやがきっかけではなく、浪人していた頃友達がギターを置かしてくれと持って来たのを、その友達に「ギターにはコードっていうのがあって、コードはこうやって弾くんだよ」と教えてもらい、これでグループサウンズの歌なんかができるんだぞって言われ、弾き語りをしたり、作曲をしたりしたと言う。加山雄三の詩に違うメロディーをつけて作曲もしていた。加山雄三に影響を受けてギター始めたっていうのは格好悪いから、いちいち訂正はしていないが、本格的にやり始めたのは高石ともやを聴いてから。初めて買ったギターは、山谷の質屋で3,200円だった。
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楽器との関わり
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「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」の記事における「楽器との関わり」の解説
ベートーヴェンが所持したピアノの中に、ウィーンのピアノ製造会社ゲシュヴィスター・シュタインが作った楽器があった。1796年11月19日、ベートーヴェンはナネッテ・シュトライヒャーの夫アンドレアス・シュトライヒャーに、こう手紙を書いている。「一昨日、あなたのフォルテピアノを受け取りました。本当に素晴らしくて、誰もが所有したいと願うでしょう…」 カール・チェルニーの回想によると、1801年に、ベートーヴェンは自宅にワルターのピアノを持っていた。また1802年には、ワルターに1本の弦によるピアノフォルテの製作を依頼するよう、友人のツメスカルに頼んでいる。 そして1803年にベートーヴェンは、エラールのグランドピアノを受け取った。しかし、ニューマンはこう記している。「ベートーヴェンは最初からこの楽器に不満だった。この作曲家には、イングリッシュアクションが非常に重かったのだ」 さらに別のピアノ、1817年製のブロードウッドをトーマス・ブロードウッドから贈られており、ベートーヴェンは1827年に亡くなるまで、この楽器をシュヴァルツシュパニアーハウスの自宅に保管していた。 ベートーヴェンの最後の楽器は、4重弦の張られたグラーフのピアノだった。コンラート・グラーフはベートーヴェンに6オクターブ半のピアノを貸し出し、作曲家の死後にヴィンマー家に売却したと自ら認めている。この楽器は、1889年にボンのベートーヴェンハウスが購入した。
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楽器との関わり
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フランツ・リストは、ポルトガルの演奏旅行でボワスロピアノを使い、その後1847年のキエフとオデッサへの演奏旅行でその同じピアノを用いたことが知られている。リストは、ヴァイマルのアルテンブルク邸にボワスロを保持した。彼はグザヴィエ・ボワスロに宛てた1862年の手紙で、この楽器に没頭する自身の様子を「鍵盤は、過去、現在、未来の音楽の戦いを経てほとんど使い古されているが、私は決して取り替えはせずに、お気に入りの仕事仲間として私の最期まで保持しようと決心した」と表現した。この楽器は、今は演奏不可能な状態にある。ヴァイマル古典財団は、現代の楽器製作者のポール・マクナルティに依頼し、2011年にこのボワスロピアノの複製の作成を実現した。現在、復元楽器とリストの楽器は、並べて展示されている。ヴァイマルのリストに縁のあったピアノは、エラールや、アレクサンドルの「ピアノ・オルガン」、ベヒシュタインピアノ、そしてベートーヴェンのブロードウッド・グランドである。
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