検察側補充立証
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1985年(昭和60年)1月21日の第24回公判から同年8月26日の第29回公判にかけて、検察側は大量の証拠を追加で申請して補充立証を求めた。検察側の補充立証の柱は、主に、102号室の住民が聞いた水音について、イソミタール面接について、輿掛の傷について、の3点であった。 検察は、裁判所の許可を得た上で同年1月14日に密かに検証実験を行っていた。この検証で、202号室の風呂で水を流す音が102号室の住民に聞こえることを確認し、調書を証拠として申請した。弁護側は、検証のためとはいえ起訴後の強制捜査は違法であり証拠能力はないと主張したが、裁判所はこの検証調書を証拠として採用した。 また、「行っただけで殺していない」というイソミタール面接での輿掛の供述については、同年12月9日の第31回公判に精神科医で責任能力についての権威とされる東京医科歯科大学の中田修教授を証人として招いた。鑑定書自体にも「麻酔下の発言の信用性は疑問視され、今日ではほとんど用いられないようである」「今回の発言は、自分の犯行を否認するために最近思いついた創作である可能性は否定できない」と記載されているが、中田教授も、本人が強く言いたくないと思っていることは言わないこともあるとしてイソミタール面接での供述には信用性がないと証言した。 輿掛の首や左手甲の傷については、同年1月10日に検察が独自に九州大学の牧角三郎名誉教授に鑑定を依頼し、8月26日の第29回公判に鑑定書を提出した。10月7日の第30回公判に出廷した牧角名誉教授は、検察側の主尋問に対して「T警部補が確認した輿掛の首の傷は発赤反応であり、6人に繰り返し何度も実験した結果、これは受傷後2時間から3時間以内に見られるものである」として、犯行時に被害者の爪によって生成された可能性があるという内容を証言した。しかし、弁護側の反対尋問で、T警部補が傷を確認したのは事件発生の翌朝6月28日4時30分ころから6時30分ころまでの事情聴取の終わりころであり、鑑定書通りその2時間か3時間前にできた傷であるとすると、輿掛の傷は6月28日0時前後とされる犯行時刻にできた傷ではないことになると指摘されると、牧角名誉教授は絶句し、慌てて「個人差がある」と言葉を濁した。 さらに、1986年(昭和61年)4月21日の第33回公判では、T警部補が作成した捜査本部事件情報報告書を証拠として提出した。これは捜査員から捜査本部にあてた内部報告であり、そこには、事件直後の事情聴取の際に確認した左手甲の傷について「この傷は赤身が出て表面は薄く幕〔ママ〕でおおわれている」と書き込みがされていた。T警部補を証人として行われた同年6月30日の第37回公判で、弁護側は、事件後4年も経って急にこのような文書が出てきたこと、このような重要な内容が正式な捜査報告書に記載されていないことなど、この報告書の不自然さを指摘した。しかし、裁判所は、同年7月28日の第39回公判において、署名も捺印もないメモ程度に過ぎないとする弁護側の強硬な反対を押し切って、この報告書を証拠として採用した。 弁護側は、裁判所のこうした検察寄りの訴訟指揮に対して不信感を募らせていった。
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