朱棣(永楽帝)の臣下
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姚広孝(道衍法師)(演:杜雨露(中国語版)) 朱棣(永楽帝)の参謀・軍師。もとは一介の僧侶だったが、その見識を朱棣に認められ、三顧の礼をもって燕王府に迎えられた。朱棣に常に的確な助言を行い、靖難の変の作戦・計画に活躍。永楽帝即位後は霊谷寺の僧侶に戻ったものの、影のブレーン的存在として、引き続き永楽帝の治国・大業を強く支える。朱棣の人生における最大の理解者であり、鄭和の実の師匠でもある。鄭和の大航海には終始賛成派の立場をとる。 丘福(演:賈維) 朱棣(永楽帝)の側近の将軍。淇国公。靖難の役においては、燕王軍の主力武将として活躍。漢王(朱高煦)とは親しい関係にある。1409年、北伐の元帥として10万の兵を率い、モンゴルを攻めたが大敗。軍に壊滅的被害を出し、永楽帝に合わせる顔がないとして自害した。 夏原吉(演:張浩) 建文朝の戸部主事。永楽朝の戸部尚書。建文帝に忠誠を誓っていたが、国への厚い忠義を買われ、永楽帝の腹心の部下となる。清廉潔白で実直な性格であり、永楽帝の信頼がとりわけ厚い。国庫の消耗を常に憂い、鄭和の大航海事業には常々反対していたが、永楽帝の死に際して、自身の考えの誤りを悟り、一転して航海賛成派となる。罪人に陥れられた鄭和を説得し、一時的に罪を認めさせることで鄭和の身を守った。永楽帝の死後隠居したが、宣徳帝の即位後に朝廷に復帰し、宣徳帝に対して鄭和の大航海の再会を強く説き、併せて最後の船旅に出る鄭和を見送った。 解縉(中国語版)(演:蒋昌義) 建文朝の礼部主事。永楽朝の内閣の大臣。翰林院学士&右春坊大学士。清廉潔白で実直な性格。鄭和の大航海に猛反対して過激な諫言を行い、永楽帝から何度か罰せられたが、永楽帝からの信頼は極めて厚かった。学識・教養が非常に豊かであり、学者としても名高く、『永楽大典』の編纂の主任を務めた。後に、漢王(朱高煦)や錦衣衛の紀綱らの罠にかかり、暗殺される。 鉄平(演:馬駿) 朱元璋時代からの明朝の老将。征南将軍。鎮南侯。朱元璋から絶大なる信頼を受け、宝剣を賜っている。朱元璋亡き後は、即位した建文帝に忠誠を誓い、反乱を起こした燕王・朱棣と敵対し、南京での戦いにおいても、最後まで朱棣に対して抗い続けたが、敗れた。その後、永楽朝の武将となるが、永楽帝の存在を認めず、鄭和の大航海にも強固として反対の態度を取り続ける。 王忠(演:李士才) 朱元璋→建文帝→永楽帝の三代に側近として仕えた宦官。建文帝に対して厚い忠義を誓っており、燕王軍が南京を攻めた際は、朱元璋の残した遺詔を明かし、機転を利かせて建文帝の逃亡を助け、その命を救った。建文帝を逃がした後、自身は長江に身投げし自殺を図るが失敗。その後、皇宮に戻り、以後永楽帝の側近宦官となる。当初は永楽帝のことを憎み、密かに毒殺しようとしていたが、次第に永楽帝の功績を認め、永楽帝への忠義心を深めていった。永楽帝の死後即位した洪熙帝が、永楽帝の国策を停止すると、激しく諫言を行い、服毒自殺を遂げた。
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