時雨沈没
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1945年(昭和20年)1月24日早朝、時雨以下ヒ87A船団はタイランド湾、マレー半島東岸を速力12ノットで航行していた。船団はさわらく丸を中心に、さわらく丸の前方1.5kmに旗艦干珠、さわらく丸の左舷(右舷)1.5kmに時雨(三宅)、さわらく丸後方1.5kmに第13号海防艦が配置されていた。この時、船団は米潜ブラックフィン(USS Blackfin, SS-322)、同ベスゴ(USS Besugo, SS-321)に発見されていた。また同海域は米潜水艦の跳梁する難所としてシンガポール方面の日本軍は航行しないよう心得ていたのだが、ヒ87A船団はその事を知らされていなかった。0700前、水深60m、風速4m、波浪小、雲量10、視界3000m、気温28度という条件で時雨は左舷4460mに電探反応を認める。まず船団に潜水艦警報を出そうとしたが電話は通じず、時雨は電探射撃を実行すべく、『肉眼で確認した敵潜水艦』を目標として7時3分に面舵転舵。この運動により、時雨の左舷前方に位置していたブラックフィンに絶好の射点を与えることになった。時雨に迫る2本の雷跡を発見した者もいたが、錯覚や連絡不備により艦幹部の判断を変えるには至らなかった。艦長達は、電探で捕捉した艦首方向の敵B潜水艦(ブラックフィン)と、肉眼でとらえたとされる敵A潜水艦を混同していたのである。ブラックフィンは歴戦の駆逐艦である時雨を撃沈するという大戦果をあげる事になった。0704、時雨は左30度に魚雷を発見して面舵回避を開始、この魚雷は艦尾をかすめたという。1分後、4本確認された魚雷のうち魚雷1本が時雨の左舷後部に命中した。急激に傾斜した為、ただちに総員上甲板が下令された。0710に総員退去、艦中央部で前後に分断された時雨は0715に沈没した。三宅によれば、船団最後尾にいた時雨は敵浮上潜水艦攻撃に反転したあと消息をたち、海防艦が後をおいかけると既に沈没していたという。干珠、第13号海防艦は制圧射撃を行ったが効果がなく、0815-0817、北緯05度59分 東経103度48分 / 北緯5.983度 東経103.800度 / 5.983; 103.800の地点で米潜ベスゴがさらわく丸へ向けて魚雷を発射。魚雷1本がさわらく丸に命中したが、幸い不発だったため沈没の恐れはなかった。干珠はさわらく丸を護衛してシンガポールへ向かい、第13号海防艦、三宅が時雨乗組員の救助にあたった。時雨の沈没地点は北緯06度00分 東経103度45分 / 北緯6.000度 東経103.750度 / 6.000; 103.750と記録された。時雨の戦没により、白露型駆逐艦10隻全てが戦没した。26日、シンガポール到着直前、さらわく丸はアメリカ陸軍航空軍が航空敷設した磁気探知機雷に触れて損傷する。度重なる損傷で満身創痍になりながらも、さらわく丸は護衛艦3隻と共に同日シンガポールに到着。兵員を降ろした後第101工作部に回航され、修理を受ける。
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