昭和初期の橋とは? わかりやすく解説

昭和初期の橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 12:38 UTC 版)

上江橋」の記事における「昭和初期の橋」の解説

1920年大正9年)より開始され荒川河川改修一環で、昭和初期荒川入間川現在の位置を通るようになり、東西直線的だった「川越新道」が堤防背割堤設けられたことによりカーブ連続する取り付け道路となり、いつからけられていたかは定かではないが、上述とは別の場所で、現在の橋の上流側となる荒川入間川新河道上それぞれ木製冠水橋けられている時期があった。この冠水橋荒川の方は1957年永久橋開通した際に、入間川の方も1964年から1969年にかけての間に撤去されている。取り付け道路ゴルフ場となった区間除き両岸とも河川敷降りる道路として現存している。なお、埼玉県運営する彩の国デジタルアーカイブ』に収録されている映像コンテンツの「埼玉ニュースNo.57-2 県下初の有料橋大宮・川越―」の冒頭に、この入間川上の冠水橋が、施工中の旧上江橋と共に映されている。

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昭和初期の橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/22 08:44 UTC 版)

大芦橋」の記事における「昭和初期の橋」の解説

大芦橋開通する以前木造冠水橋かんすいきょう)、さらに以前昭和初期頃迄ははなく、いつから存在していたかは定かではないが、八王子千人同心道(日光脇往還)に属する「大芦渡し」と呼ばれる官設渡船対岸結んでいた。渡船場には1803年享和3年)頃開設された「大芦河岸」が併設され大正時代には渡船場川上側に仮橋架設されていた。また、大芦渡しのすぐ下流側には松山道属する「五反田渡し」と呼ばれる私設渡船設けられ、こちらも渡船場河岸併設され冬季には川下側に仮橋架設されていた。現在は大芦河岸跡が現橋の上流側に痕跡として残る。昭和初期架設され冠水橋橋脚橋桁共に木製現在の橋300メートル下流荒川のみにけられ、和田吉野川を渡るには抜水橋である吉見橋を渡る必要があった。冠水橋は北足立大里を結ぶ重要な交通路となっていたため、洪水不通となるたびに緊急事態になり復旧までの間、水量がまだ相当ある中、緊急に仮橋けられ、この様なことはのちの永久橋けられるまで何度も繰り返された。1949年昭和24年8月にはキティ台風流失し1965年昭和40年5月台風損壊し、3か月後の8月22日台風17号洪水相次いで流失した。県は15473000円の工事費掛けて1966年昭和41年3月20日開通予定復旧工事進められた。通行止めになりその間仮橋けられた。

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