日東化学工業の創設とアルミナ製造の挫折
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「北大東島のリン鉱山」の記事における「日東化学工業の創設とアルミナ製造の挫折」の解説
国際情勢の緊張が高まる中、日本では軍備増強が盛んに唱えられるようになった。そのような中で戦略物資として重要度が高いアルミニウム原料の自給と増産が求められた。そのような中で改めて北大東島のリン酸礬土鉱が注目されるようになった。1934年、大日本製糖は北大東島のリン酸礬土鉱の処理方法についての研究を、東京工業大学教授の加藤與五郎に依頼した。加藤の研究成果に基づき、まずは東京工業大学内で工業試験を行い良好な成績を収めた。そこで1936年9月には大日本製糖東京工場内にパイロットプラントを完成させ、北大東島のリン酸礬土鉱の連続処理を行ったところ、当初の予想を上回る好成績を挙げた。大日本製糖は加藤によるリン酸礬土鉱処理法の実用化の目途が立ったと判断し、1937年8月23日に日東化学工業を創設し、八戸に工場を新設することにした。1937年9月半ばには八戸工場建設が始まった。 加藤によるリン酸礬土鉱処理方法は硫酸法と呼ばれる方法であった。硫酸法ではまず最初にリン酸礬土鉱を焙焼して細粒とした上で濃硫酸で溶解し、固相反応を利用してケイ酸を除去する。ケイ酸の除去後にはアルミニウム硫酸塩とリン酸が残ることになる。続いてアルミニウム硫酸塩はアンモニアと作用させて硫酸分からは硫安を、アルミニウムは水酸化アルミニウムを経てアルミナを精製し、一方リン酸にもアンモニアを作用させてリン酸アンモニウムを精製する。つまり北大東島のリン酸礬土鉱の処理によってアルミニウムの原料となるアルミナ、そして肥料になる硫安とリン酸アンモニウムが精製されることになる。なお、硫酸は接触法、アンモニアはハーバー・ボッシュ法により八戸工場にて自社製造することになった。 硫酸法で用いる硫酸の原料として、岩手県にあった松尾鉱山の硫黄を使用する計画であった。またアンモニアの原料となるコークスは、北海道産石炭のコークスを利用することになった。硫黄とコークスの入手の便、さらに水が豊富で労働力が得やすい良港であるという地の利を考慮した結果、八戸に工場が建設されることになった。工場の建設は日中戦争の勃発によって機器や資材の供給が困難となり、ドイツ製のアンモニア製造機器の納入も遅れたため、予定よりも遅れたものの1938年末には硫酸の製造が開始され、アンモニアも1939年には製造が始められ、1940年3月からは硫安の製造が開始された。 しかしアルミナ製造に関しては東京工業大学での工業試験、大日本製糖東京工場のパイロットプラント段階では順調であったものの、八戸工場ではトラブル続きで生産が軌道に乗ることは無かった。その上、戦況が悪化していく中で、北大東島から遠い八戸までリン酸礬土鉱を輸送することが困難となった。そこでリン酸礬土鉱の処理を八戸ではなく台湾で行うようにしてはどうかとの意見が出されるようになった。更に応召される工場技術者の増加に伴う人材不足も重なり、結局、北大東島のリン酸礬土鉱処理を用いた日東化学工業八戸工場のアルミナ製造は本格稼働されること無く中断された。1940年12月から1945年8月の終戦時までの間の、日東化学工業八戸工場における北大東島のリン酸礬土鉱を原料としたアルミナの生産量は総計1130トンであった。
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