日本製大衆車の席巻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 00:08 UTC 版)
日本の大衆車は米国に輸出され、1980年代には日米貿易摩擦からきたジャパンバッシングといった感情的な米国内自動車産業界の反発を招くほどに市場を席巻したが、その進出の歴史は最初から順風満帆というわけでもなく、日本国内の自動車産業が大衆車の開発・発展に伴い円熟する1970年代の頃まで待たねばならなかった。 日本車のアメリカへの本格輸出は、大衆車が生まれる以前の1960年頃から始まり、トヨタはクラウンとランドクルーザー、日産はダットサン・トラック220型、セダン210型、スポーツS210型を輸出している。 トラック並のシャシと3900ccの排気量を持つランドクルーザーは評判が良かったが、クラウンは当時トヨタの最高級車でありながら、カリフォルニア・ハイウェイパトロール(CHiPs')のテストでは、高速操安が危険とされるレベルであり、オーバーヒートや焼きつきも頻発、早々に輸出が中止されるという状況であった。T20系コロナもクラウンにあやかった「ティアラ」の車名で北米進出を果たしたが、良い評価は得られないまま輸出を中止している。トヨタ初の大衆車であるパブリカは極少数しか輸出されなかった。 トヨタは、クラウンやコロナのための販売会社とショールームをロサンゼルスに設けたが、肝心の商品が全くない状態となってしまい、カローラによる攻勢が始まるまでは、ランドクルーザーの販売のみで北米会社を支える日々が続いた。 ダットサン各車は、もともと丈夫なオースチンのコピーであったためスピードが足りない以外では大きなトラブルは無かったが、貧相で小さすぎるため、売れ行きは芳しくなかった。しかし、後に北米日産の社長となる片山豊が、自らのドライブで現地ディーラーへの飛び込み営業を続けた結果、次第に品質が認められ、フェアでフレンドリーな片山の人柄もあって着実に販売網を増やし続け、1970年代の大躍進につながった。 トヨタや日産が本格的な乗用車の輸出を試みて苦戦していたこの時期、一方でスバルやホンダといった軽自動車中心のメーカーは、360ccのエンジンを400 - 600ccのものに換装した上で北米や欧州に輸出し、それなりの実績を上げていた。これらは本格的な乗用車ではなく、粗末なバブルカーの代替となるシティコミューターとして受け入れられたのである。戦後日本車の輸出での強みが小型軽快であることは、この時点で確定していた。 カローラやサニーの輸出は1967年モデルからと日本車の米国進出ではやや後発の部類に入る。
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