日本以外での覚醒剤の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:21 UTC 版)
ナチス統治下のドイツでは1938年、アンフェタミンより数倍の強力な効果があるメタンフェタミンが、ペルビチン錠として市販された。 ドイツ国防軍も当初は危険性を強くは認識していなかったために、主に兵士に、積極的に覚せい剤を支給していた。家族から取り寄せる兵士もおり、第二次世界大戦初期の電撃戦で、短期間に連続した行動を求められる兵士の士気向上に効果を発揮した。日本のヒロポンより先に1938年より市販されていたメタンフェタミンの錠剤「Pervitin」と「Isophan」を1940年4月〜7月のわずか4か月の間に3500万錠を製造し、ドイツ陸海空軍の兵士に支給した。その錠剤は見た目がチョコに見える事から「Panzerschokolade」(タンクチョコレート)と呼ばれたが、ラベルに「Stimulans」(覚醒剤)と表示され「不眠を維持したいときに服用すること。2錠あたり3〜8時間の睡眠の代わりになる。」と効果が説明されていた。 ドイツでメタンフェタミンが注目されるきっかけとなったのが1936年ベルリンオリンピックで、アメリカの選手が使用したアンフェタミンの市販薬「ベンゼドリン」の効果に着目したドイツ国民が、メタンフェタミンの市販薬「Pervitin」を愛用するようになり、同じスポーツ選手のほかにも歌手や受験勉強中の学生はおろか、家庭の主婦までが使用するようになっていた。このようにドイツ国内では、軍が使用する以前に既にドイツ国内で流行しており、多くの国民が愛用していた。 特に、ドイツ空軍ではメタンフェタミンは「パイロットの塩」と呼ばれ、「塩」に例えられるほどの必需品として乱用され、ドイツ空軍活躍の原動力ともなっている。バトルオブブリテンでは、ドーバー海峡を挟んだ長距離の航空作戦となったことから、疲労回復と長時間の覚醒のためにドイツ空軍パイロットが「Pervitin」を常用するようになっていた。またメタンフェタミンをチョコレートに混ぜた「Fliegerschokolade」もドイツ空軍のパイロットに支給され、大量に生産されたために、ドイツ軍兵士は終戦まで「タンクチョコレート」を服用し続けた またアドルフ・ヒトラー自身も持病のパーキンソン病治療のために毎日メタンフェタミンを注射されていたという証言もある。 弊害に気づいて1941年に危険薬物に指定されたが、過酷な生活・戦闘を強いられる東部戦線の兵士やUボート乗組員など軍での使用状況は変わらなかった。大戦末期になると、大量に覚せい剤を使用してきたひずみにより、ドイツ軍兵士に覚せい剤中毒患者が発生しており、ドイツ第三帝国の国家医師指導者で内務省保険担当相であったレオナルド・コンティ (ドイツ語版) 親衛隊大将が覚せい剤の危険性をようやく認識し使用制限を行おうとしたが、できないままで終戦を迎えた(レオナルド・コンティ大将は降伏後に自殺)。 また強制収容所の囚人らを実験材料に、副作用が少ない薬物の開発も進められていた。 一方連合軍のアメリカ・イギリスもナチス・ドイツほどではないが、メタンフェタミンを使っており、主にドイツや日本への本土戦略爆撃機パイロットに、長時間飛行の疲労回復剤や眠気解消剤として支給していた。またアメリカ軍は、覚せい剤アンフェタミンを現代に至るまで主にパイロットに使用している。最近でもアフガニスタン紛争 (2001年-)での誤爆事件(ターナックファーム事件(英語版))で、アメリカ空軍が疲労回復剤として、アンフェタミンの錠剤の服用をパイロットに強制していたことが明らかになっている。
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