日本人初の表彰台とは? わかりやすく解説

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日本人初の表彰台

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:27 UTC 版)

鈴木亜久里」の記事における「日本人初の表彰台」の解説

1990年は、自身のパーソナル・スポンサーであった伊東和夫エスポ社長)が、この年よりチームオーナーとなっていたラルースチームに移籍バランスがよく扱いやすいローラ製のシャーシパワーのあるランボルギーニV12エンジン搭載したラルースマシンは、シーズンが進むにつれて戦闘力発揮するうになるこの年ラルース予備予選課せられていたが、チームメイトエリック・ベルナールともども前半戦は全戦通過前半戦でのポイント獲得後半戦予備予選免除となったまた、この予備予選1時間戦闘力アップのための格好テストとなっていた。 まずまず戦闘力を持つマシンを手にし、「これでダメなら引退」との思い臨んだシーズン中盤のイギリスGPで6位初入賞し終盤スペインGPでも再び6位入賞記録。次戦日本GPでは上位勢がクラッシュなどで離脱する波乱のレースを、一時ファステストラップ記録して生き残り、ついに3位初表彰台を獲得した。これは2004年アメリカGP佐藤琢磨3位入賞するまで、長い間アジア人(および日本人ドライバーとして唯一のF1における表彰台だった。母国日本グランプリにおいても、2012年小林可夢偉表彰台上がるまで唯一の日本人ドライバーであった。 この日本GP前には、ベネトン代表のフラビオ・ブリアトーレからオファーを受け、1991年からの3年契約合意していた。ラルースとの2年契約がもう1年残っていたが、すでにチーム資金不足深刻化しており、「今年限り撤退するからなんとかなるだろう」と思っていたという。しかし、他の日本スポンサー支援チーム存続し亜久里契約引き継がれたため、ベネトンへの移籍話も実現しなかった。とは言え代わりにベネトン加入したロベルト・モレノイタリアGPミハエル・シューマッハ交代させられたため、「移籍できたとしても、どのみちクビだったかもしれない」と語っている。 また、1990年経験不足を補うため、F1のほかにトヨタから世界スポーツプロトタイプカー選手権WSPC)にもエントリーをして二足の草鞋を履くという努力をしている。当時WSPCはほぼF1と同じサーキット開催されており、予備予選僅かな時間しか走行できないハンデWSPC出場する事で補っていた。

※この「日本人初の表彰台」の解説は、「鈴木亜久里」の解説の一部です。
「日本人初の表彰台」を含む「鈴木亜久里」の記事については、「鈴木亜久里」の概要を参照ください。

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