日本人初のメジャーリーガー誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:10 UTC 版)
「1964年のメジャーリーグベースボール」の記事における「日本人初のメジャーリーガー誕生」の解説
最後までナショナルリーグのペナントを争ったサンフランシスコ・ジャイアンツのファームチーム1Aのフレスノに、この年春に野球留学で日本から20歳の投手がやって来た。当時の南海ホークスに高校在学中の2年前の9月に入団契約し、前年は3試合に登板して2イニング投げ、本塁打1本打たれて失点1の成績であった。大リーグに行くのが夢であった彼は鶴岡監督(当時)の計らいで、アメリカへの野球留学が認められて、フレスノにやって来たのであった。送り出した南海はあくまで経験を積ませるためでメジャーまで行けるとは考えていなかった。だから渡米にあたってサンフランシスコ・ジャイアンツとの契約でメジャーに上がる場合は1万ドルで金銭トレードができるとの条項が入っていても気にも止めなかった。ところがフレスノでの1Aリーグで11勝を挙げて防御率1.78の成績を残した彼をジャイアンツは注目して、シーズン終盤で次の年の布陣を考慮していきなり1Aからメジャーに昇格させ9月1日のニューヨーク・メッツ戦に登板させた。1イニング投げて無失点で以後も中継ぎとして登板させて9試合15イニング3失点で防御率1.80、そして9月29日のヒューストン・コルト45's戦で3イニング投げて初勝利を上げた。彼のジャイアンツでのデビューは日本でも初のメジャーリーガー村上雅則の誕生で話題となった。しかしシーズン終了後に、彼を帰国させる予定の南海ホークスと翌年も契約させたいサンフランシスコ・ジャイアンツとの間で揉めて、翌年春まで日米ともコミッショナーを巻き込んでの騒動となった。
※この「日本人初のメジャーリーガー誕生」の解説は、「1964年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「日本人初のメジャーリーガー誕生」を含む「1964年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1964年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。
- 日本人初のメジャーリーガー誕生のページへのリンク