新馬 - 弥生賞
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「サクラスターオー」の記事における「新馬 - 弥生賞」の解説
平井は、サクラスターオーの母父がステイヤーのインターメゾであることから、本格化は古馬になってからと捉えていた。そのため、無理に成長を促そうとはせず、強め調教が施されぬままにデビューを迎えることとなった。1986年10月5日、東京競馬場の新馬戦(芝1600メートル)にて、さくらコマースの主戦騎手である小島太が騎乗し、1番人気2着。続く10月18日、同じ条件である2戦目で、初勝利を挙げた。しかしこの2戦は、ハンディを他の脚で庇いながら走ったため、四肢の負担が偏ってしまい故障。勝利後4か月出走できなかった。この間に年をまたぎ、4歳となった1987年2月21日、寒椿賞(400万円以下)で復帰。マティリアルに2馬身以上離された5着となった。 それから目標をクラシックに据えて、皐月賞の優先出走権が与えられる3月8日の弥生賞(GII)に参戦。デビューからここまで3戦は、小島が騎乗していたが、東信二に乗り替わった。小島は、さくらコマースと専属騎乗契約を結んでおり、その通りサクラスターオーにも騎乗していた。しかし、小島が好景気時に台頭した他の馬主と親しくするなど、さくらコマース所有馬以外へ騎乗する機会を増やしたところ、さくらコマースの全と小島の関係が悪化。全は、弥生賞2日前の3月6日に、騎手の変更を指示した。代わりに、母サクラスマイルへの騎乗経験があり、元・境厩舎所属でフリー騎手となったばかり、さらに当時「代打屋」呼ばれていた東が起用されるに至った。調整ルームに入ろうと支度をしていた東のもとに騎乗依頼が届き、弥生賞前日、3月7日朝の調教で初めてサクラスターオーとコンタクトを行った。 当日は11頭が出走する中、重賞2勝、朝日杯3歳ステークス2着のホクトヘリオスが2.4倍の1番人気、共同通信杯4歳ステークス優勝、重賞2着2回のマイネルダビテが2.8倍の2番人気となり、以降オッズ6倍、7倍の3頭がいて、サクラスターオーは18.9倍の6番人気の支持であった。 スタートからビュウーコウが逃げ、それにマイネルダビテが続く一方で、サクラスターオーはホクトヘリオスと並んで中団を追走。第3コーナーから最終コーナーにかけて、サクラスターオーは外に持ち出して位置を上げ、大外4番手で直線に向いた。それから末脚を発揮し、逃げるビュウーコウ、抜け出しを図るマイネルダビテを外から差し切り、クビ差をつけて優勝。走破タイム2分2秒1は、1984年のシンボリルドルフに次ぐ史上2番目の速さであった。また平井にとっては、厩舎開業1年で初重賞勝利、それもクラシックに有力馬を送り込むこととなった。レース直後の表彰式に出席した平井は、青ざめた顔で、足の震えを止めることができなかったという。 皐月賞の優先出走権を獲得し、続いて皐月賞に出走することになるが、弥生賞から1週間後、皐月賞を1か月前に控えた3月15日、サクラスターオーにミルクを与えた藤原祥三が59歳で脳梗塞のために死去。祥三の妻・京子によれば、生産馬サクラユタカオーが活躍していた際に、競馬月刊誌『優駿』の特集「GI勝ち馬の故郷」に取り上げられ、祥三は「死ぬまでにせめてあと一回でいいからこれに載りたい」と言っており、またサクラスターオーの走りを見届けた際には「クラシックが楽しみになった」とも言っていた。
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