弥生賞優勝 - 皐月賞4着(3歳9月 - 4歳4月)
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「ウイニングチケット」の記事における「弥生賞優勝 - 皐月賞4着(3歳9月 - 4歳4月)」の解説
1992年9月6日、函館競馬場の新馬戦(芝1200メートル)に柴田政人が騎乗し、7番人気でデビューし5着。9月13日、連闘で臨んだ2戦目の新馬戦は、柴田から指摘されて距離延長し芝1700メートル。横山典弘が騎乗して1番人気で出走し、2番手から抜け出し初勝利を挙げた。その後はソエのために約3か月休養。栗東に戻って関東に遠征し、12月6日の葉牡丹賞(500万円以下、芝2000メートル)に田中勝春が騎乗。スローペースの中、9頭立て最後方を追走、第3コーナーからまくり、最終コーナーを先頭で通過、直線では止まらず差を広げた。4馬身差で2勝目を挙げる。それから12月27日、ホープフルステークス(OP)では柴田政人が舞い戻り1番人気の支持。好位から直線で先頭に立ち、差を広げて先頭で入線。3馬身差をつけて3連勝とした。 休養している間に4歳となった1993年、3月7日の皐月賞のトライアル競走である弥生賞(GII)に3.3倍の1番人気に支持される。以下、ラジオたんぱ杯3歳ステークス優勝のナリタタイシンが3.5倍、ジュニアカップ優勝などデビュー2連勝のドージマムテキが4.9倍で続いていた。伊藤によれば「85点の状態」での出走だった。スタートから最後方を追走し、第3コーナーで外から進出。最終コーナーを大外6番手で通過、末脚を見せてすべて差し切った。以降は、差を広げる一方となって先頭で入線、2番手ナリタタイシンに2馬身差をつけて重賞初勝利、皐月賞の優先出走権を獲得した。走破タイム2分0秒1は、アサカリジェントが前年に樹立した弥生賞レコードを1.4秒更新。さらに1984年にシンボリルドルフが樹立した、同距離同条件の皐月賞レコードを1秒上回った。タイムでのシンボリルドルフ越えは、軍土門隼夫によれば「衝撃」だったと語られる。中山競馬場芝2000メートルでの3連勝となり、クラシックの主役、本命馬として臨むこととなった。 4月18日、皐月賞(GI)に参戦、単勝オッズ2.0倍の1番人気に支持される。若葉ステークス優勝から臨む6戦4勝2着2回、朝日杯3歳ステークス2着馬ビワハヤヒデが3.5倍の2番人気となり「二強」を形成。以下、ナリタタイシン、シクレノンシェリフ、ツジユートピアンと続いていた。2枠4番からスタートし、スローペースの流れでナリタタイシンとともに後方を追走。向こう正面でナリタタイシンと別れて位置を上げ、第3コーナーからは中団のビワハヤヒデと合流しともに進出。2番手集団に加わり最終コーナーを通過した。直線ではしばらく二強で横並びだったが、以後ウイニングチケットは失速。二強の争いを制したビワハヤヒデは抜け出したが、後方外から追い込んだナリタタイシンにクビ差差し切られている。ウイニングチケットは、その争いに1馬身半以上後れを取る5位で入線した。3位入線ガレオンの直線コースでの斜行が、ステージチャンプの進路を妨害したと認定されて8着降着。それに伴い繰り上がりが発生し、ウイニングチケットは4着となった。東京優駿(日本ダービー)の優先出走権を獲得。柴田は「道中はジワジワと上昇して早めに好位に取り付いたが、結果的にはこういった競馬は向かなかった。弥生賞のように、直前だけの競馬に徹した方が良かったかな。」と述べていた。
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