新聞統制が遺したもの
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残された新聞社は、ライバル社がいくつかの全国紙と1つの地方紙であるため、関東・関西以外の地方紙はほぼ独占的なシェアを誇ることとなった。 戦後、新たな新聞社の設立が自由となって「福島民友」が復刊し、「栃木新聞」、「山梨時事新聞」、「北陸新聞」、「日刊福井」、「奈良新聞」、「山口新聞」、「日刊新愛媛」、「フクニチ新聞」、「鹿児島新報」、「沖縄タイムス」のような第二県紙的な存在となる新聞も相次いで設立された。大阪府においては特に、夕刊専売の地方紙(大阪新聞=産経新聞系、新大阪・日本投書新聞→新関西=毎日新聞系、関西新聞、大阪日日新聞=いずれも当時独立系)が乱立する状態になっていた。 一方でこの際に起きた全国紙の無軌道な拡販は新聞界を大きく混乱させた。この際、全国紙の幹部の一人は統制で販売網を譲ったことなどから「地方紙には貸しがある」と全く意に介さなかったという。既存の地方紙の地盤を崩すために全国紙は共同で通信社を脱会。これは中央や海外の情報網が貧弱な地方紙の代わりに取材する「通信社」を潰しにでた作戦とされる。これは共同側がANC(アジア・ニュース・センター)構想をぶちあげる背景となり、PANAと提携していた時事の長谷川才次は強く反発した。 また、地方紙でも都市部においては全国紙や有力ブロック紙に発行部数を食われる新聞社も少なくなく、「和歌山新聞」、「滋賀日日新聞」、「防長新聞」は廃刊に追い込まれ、ブロック紙の中日新聞社は1960年に「北陸新聞」、1967年「東京新聞」、1992年に「日刊福井」の編集・発行権を譲り受けて発行エリアを拡大、「日刊福井」は「北陸中日新聞」(「北陸新聞」の後身)の福井版と統合した後、1994年に「日刊県民福井」と題号を改めた。 さらに戦後復発刊した第二県紙も多くは既存地方紙との競争に負け、「福島民友」、「奈良新聞」と「沖縄タイムス」以外は経営悪化に追い込まれている(奈良県では第一県紙であった奈良日日新聞が奈良新聞に統合された)。特に鳥取県の日本海新聞は、隣県・島根県の山陰中央新報(旧・島根新聞)が鳥取県の一部地域で発行されるようになって以後は、その山陰中央やブロック紙の中国新聞などのあおりを受けて、一度1975年に経営破たん(会社更生法申請)を引き起こしたため休刊に追い込まれたが、1976年に地元の実業家・吉岡利固(現・グッドヒル、新日本海新聞社社主)のグループが再建スポンサーとなって復刊した。 こうした状況下、多くの地方紙は放送局に出資することとなる。放送局への報道協力など果たす役割も多いからである。しかし、それがそのまま放送局においても「1県1波」の原則で話が進むこととなる。テレビ放送は、UHF波開拓後は、放送免許の大量交付に伴い、全国紙との関連性が重要視されるが、ラジオ放送に関しては地方紙とのかかわりが非常に深い状態が今も続いており、地方紙が弱体化している県で全国紙と関わりの深いラジオ局は、WBS、BSS、KRYくらいである(BSSは朝日系、WBSは毎日系、KRYは朝日系→読売系)。また、茨城放送(IBS)もかつては全国紙との関わりが深かった。なお、奈良県のように地方紙が弱体化している県で県域ラジオ放送がない事例もある。 戦後の新たな新聞社の設立の自由化は、道県域の一部をエリアとした地域・ローカル新聞社の設立も促し、青森県の「デーリー東北」、「陸奥新報」のように第二、第三県紙的ポジションの新聞がある一方、函館新聞のように、地方紙との遺恨が長く生じ、新聞業界の閉鎖性と新規参入の困難さを物語る事案も起きている。
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